2023年7月16日「キリストの心」

2023716日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:サムエル記上24818節、ルカによる福音書73650節、ガラテヤの信徒への手紙6110

キリストの心

 

 

キリストの教え ~隣人を自分のように愛しなさい

 

 いまお読みしました聖書の言葉の中に、《互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです》という言葉がありました(ガラテヤの信徒への手紙62節)。ここに記されているキリストの律法(教え)とは何でしょうか。少し前のところ514節)では、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の言葉がキリストの教えであると語られていました。

 

「隣人を自分のように愛しなさい」――この言葉はもともとは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)のレビ記1918節)に記されているものです。「隣人愛」という言葉はこの教えに由来しています。イエス・キリストは最も重要な掟として、「神を愛する」教えと共に、この「隣人を愛する」教えを取り上げられました。

 

 

 

同じ一人の人間として

 

「隣人を自分のように愛しなさい」。この言葉を私なりに言い直してみますと、「隣人を、自分と同じ一人の人間として、大切にしなさい」となります。目の前にいる人を、自分と「同じ一人の人間として」尊重すること。 

「愛しなさい」を「大切にしなさい」と言い直していることには理由があります。この聖書の教えにおいては、「好き」「嫌い」という心の中の感情ではなく、相手を「重んじ、大切にする」という具体的な姿勢が問われていると考えるからです。私たちは心の中にある感情自体は、無理に変えることはできません。嫌いな人を無理に好きになることはできません。でも、その相手を同じ一人の人間として尊重してゆくことはできるのではないかと思います。

自分の好き嫌い、立場や考え方の違いを超えて、相手を自分と同じ一人の人間として尊重すること。思いやりを持って接すること。少なくとも、相手を不平等に扱ったり、相手の人格を攻撃したり、尊厳を傷つけるような行為をしないこと。なぜなら、相手も同じ一人の人間であるからです。

 

相手が自分と同じ人間であるということは、その人も自分と同じように人格をもち、日々、自分と同じように悩み喜びながら生きている、ということです。自分と同じように痛みを感じ、日々、懸命に生きている。誰かから軽んじられたら悲しいし、攻撃されたら苦しい、辛いことがあったら、心が痛む。これは当たり前のことですよね。でも現在、私たちの社会において、時にこの当たり前の感覚が見失われてしまっていることがあるように思います。

たとえば、私たちの社会において課題となっている、SNS上における誹謗中傷の問題や、ハラスメントの問題。これらの問題も、相手を自分と同じ一人の人間として見ることができないことから生じていると言えるのではないでしょうか。相手も自分と同じ一人の人間であるということを忘れてしまうとき、私たちは他者に平気でひどいことを言ってしまったり、相手を軽んじ、傷つけたりしてしまいます。

 

 

 

さかなクンの言葉

 

このことと関連して、心に残っている言葉をご紹介したいと思います。みなさんはさかなクンをご存じでしょうか。魚のスペシャリストで、頭にかぶったハコフグの帽子がトレードマークです。「ギョギョギョ!」という挨拶でおなじみですね。皆さんの中にも、好きな人がいるかと思います。私もさかなクンが好きで、さかなクンがYouTubeをやっているということで、何本か動画を観てみました。

 

さかなクンは自宅で漁師さんからもらい受けた約80300匹ほどの魚を飼育しているそうです。自宅で育てている魚を紹介する動画の中で、さかなクンが印象的なことを言っていました(さかなクンチャンネル、2020/10/09。色んな種類の魚が泳いでいる大きな水槽の前で、「一見仲良く寄っているように思えるんですけど、実はですね……お互い無関心な感じなんですね。お互い無関心ですと喧嘩もせず、適度な距離を保ってですね、一緒に共存できる」。

 大きな魚も小さな魚も、様々な種類の魚が同じ水槽で一緒に泳いでいると、私たちの目から見ると仲良くしているように見えますが、実は、お互い無関心である。でもだからこそ、喧嘩もせず、共存できている。それを聞いて、「あ、そうなんだ!」と思いました。

 

 互いに無関心であるということを、私たち人間社会では否定的に捉えることも多いですが、自然の世界においては、むしろ、そのように適度な距離をお互い保っていることが、共存するための大切な要素であるのですね。

 

 このさかなクンの言葉と通ずることを、朝日新聞の記事で、ミッツマングローブさんがおっしゃっていました。《私が思う多様性は、生理的な好き嫌いも含めて互いの存在に慣れ、無関心になってゆくこと》(朝日新聞、耕論、2022107日)

 この言葉も、印象的です。多様性を考える上で、これも大切な視点だと思わされます。ここでも、無関心が否定的な意味ではなく、それぞれ違いをもった存在が共存するための、大切な意味を持った言葉として使われていますね。

 

 

 

「愛の反対は悪しき関心」(!?)

 

「愛の反対は無関心」――という言葉は、広く知られているものです。私も十代の時にこの言葉を知って以降、「確かにそうだなあ」と思っていました。自分の事を考えても、誰かに関心を持ってもらえることは、嬉しい事です。反対に、自分の存在が顧みられないことは、悲しい事です。関心を持つ、ということは誰かとつながる上で、何かとつながるうえで、とても大切な要素です。

 

一方で、「関心の持ち方」にも、いろいろな関心の持ち方がありますよね。たとえば、いまはツイッターなどのSNSで、よく炎上する、ということが起こります。炎上は多くの人の関心を呼びますよね。中には、大丈夫かなあ、と心から心配している人もいるし、問題が解決されることを願って、何が起こっているのかを知ろうとする人もいるでしょう。と同時に、炎上していることを面白おかしく思って見ている人もいるでしょう。また、何か攻撃する対象を見つけようとして、関わっている人もいるでしょう。そう思うと、他者に関心を持つことがすべて、無条件に素晴らしいことではなく、その中には、良い意図をもった場合もあれば、そうではない場合もあることが分かってきます。

 

「愛の反対は無関心」という言葉を先ほど引用しましたが、そう思うと、必ずしも、無関心は否定的に捉えるべきものではないのかもしれませんね。むしろ、真に人を傷つけるのは、悪意のある関心をもって、他者に関わることなのかもしれません。もっと困らせてやろう、とか、攻撃してやろうとか、いじわるしてやろう、とか、そのように悪しき関心を持って人に近づこうとする姿勢、それこそが、愛とは正反対にあるところの姿勢なのではないかと思わされます。このことが、先ほど述べた、SNS上における誹謗中傷の問題にもつながります。

 

以前、妻とこのような話をしていて、妻が先ほどのミッツマングローブさんの言葉を踏まえて、「愛の反対は無関心ではなく、悪しき関心」と言いました。なるほど、確かにそうだなあ、と思いました。

 

私は普段、聖書が語る愛とは、「相手を重んじ、大切にすること」、愛の反対は、相手を「軽んじること」、と説明しています。そのこととつなげると、悪しき関心をもって人に関わることは、相手を軽んじることにつながっていることですね。

ストレスが溜まっていたりすると、ついつい、悪しき関心をもって私たちは他者と関わろうとしたり、物事を知ろうとしてしまうものです。誰かを攻撃したくなってしまうものです。ついネットで炎上している事件を探してしまうこともあるでしょう。社会で起っていることにいかに関心を持ってゆくか、ということが私たちにとって大切な課題であると同時に、私たちの内にある悪しき関心をいかに制御しコントロールしてゆくか、それも、いまを生きる私たちの大切な課題なのではないでしょうか。時には、あえて、無関心を貫く場合も必要であるのかもしれません。もちろん、ここでの無関心は、困っている人がいても手を差し伸べないという意味での無関心ではありません。相手を意図的に無視するという意味での無関心ではありません。

「無関心」と表現すると否定的な印象があるかもしれませんので、「悪しき関心を人に向けない」と言い換えた方がより適切かもしれません。その姿勢は、相手の考えを尊重する、相手の存在を認め、受け容れることにつながっている姿勢であると言うことができると思います。自分とは違う相手の存在を認め、受け容れること。そしてそれは、人を愛する姿勢とつながっているものです。

 

 

 

同じ神に愛された存在として

 

 私たちは必ずしも、誰とでも仲良しになる必要はありません。気の合う人もいれば、合わない人もいるのは当たり前のことです。大切なのは、自分とは違うその人と、互いに悪しき関心を向け合い、傷つけ合うようなことはしない、という姿勢です。そのために、一定の距離を取ることが必要な場合もあるでしょう。それも、互いの存在を認め、相手を尊重するための、一つの知恵だと思います。

さかなクンは、色んな種類の魚が泳いでいる大きな水槽の前で、「一見仲良く寄っているように思えけれど、実は、魚たちはお互い無関心。お互い無関心ですと喧嘩もせず、適度な距離を保って、一緒に共存できる」と言いました。魚たちは本能的にそうしているのでしょうが、私たち人間は、意識的に、相手の存在を認め、相手を尊重することができます。私たちの決意次第で、平和に生きてゆくことは実現可能なこととなるのです。

 

聖書は、いま目の前にいる人も自分と同じ一人の人間であり、そして、「同じ神に愛された存在」であることを伝えています。たとえ感情的には好きになれない相手であっても、自分とは考えの異なる相手であっても、神さまの目からすると、大切な存在。価高く、貴い存在。神さまの目に、私たち一人ひとりが大切な存在であるからこそ、私たちは互いに傷つけあったり軽んじあったりしてはならないのです。「神を愛し、隣人を愛する」道を歩いてゆくようにと、私たちはイエスさまから招かれています。

 

 

 

《互いに重荷を担いなさい》

 

 本日は、互いを大切にするために、互いに悪しき関心を向けないことの必要性を述べました。その上で、最後に、隣人愛のより積極的な側面についてもお話ししたいと思います。

改めて、本日の聖書箇所ガラテヤの信徒への手紙62節をお読みいたします。《互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです》

 

私たちはそれぞれが、自分の課題や問題を抱えています。様々な悩みや苦しみを抱えながら生きています。本日の聖書箇所ではそれを重荷(重い荷物)と表現しています。相手の抱える重荷に対して、悪しき関心を向けるべきではないことは、すでに述べた通りです。また、自分の問題を棚に上げて、あるいは自分の問題に向かわないために、相手が抱える課題・問題を攻撃してしまうこともあるでしょう。本日の聖書箇所では《めいめいが、自分の重荷を担うべきです5節)と、そのような言動に対する戒めが語られています。

と同時に、本日の聖書では、《互いに重荷を担いなさい》とより積極的なことも語られています。重い荷物を抱えている相手の荷物を一緒に持とうとすること、です。他者の悩み苦しみに思いを馳せ、その重荷を一緒に担おうとすること。互いに重荷を担い合うことによって、私たちはキリストの律法(隣人愛の教え)を全うすることになるのだ、と手紙の著者パウロは述べています。

 

 

 

キリストの心

 

本日の聖書箇所は重荷を共に担おうとする心を《柔和な心》1節)と表現しています。この柔和な心は、言い換えると、思いやりのある心、人の痛みが分かる柔らかな心だと言えるでしょう。そして人の痛みを受け止めようとするこの心は、イエス・キリストの心とつながっています。イエス・キリストこそは、私たちの痛みを理解・共有し、私たちの重荷を共に担ってくださる方です(マタイによる福音書112830節)。重荷に悩み苦しむ私たちのために、イエスさまはこの世界に来てくださいました。いまも私たち一人ひとりの重荷を共に担ってくださっています。

 

 

私たちがいつもこのキリストの心とつながっていることができますように、私たちが悪しき関心ではなく、他者に対する柔らかな心を取り戻し、「神を愛し、隣人を愛する」道をまっすぐに歩いてゆくことができますように、神さまにお祈りをおささげいたしましょう。