2023年5月14日「ひと言おっしゃってください」

2023514日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ダニエル書61023節、テサロニケの信徒への手紙二315節、ルカによる福音書7110

ひと言おっしゃってください

 

 

 全国各地で、強い地震が相次いでいます。先々週55日の石川県能登地方の地震に続き、先週11日には千葉県南部で最大震度5強を観測する強い地震がありました。昨日は鹿児島県南部の十島村で、震度5弱を観測する強い地震がありました。多くの方が不安の中を過ごしていらっしゃることと思います。復旧作業の上に神さまのお守りがありますように、お一人おひとりの生命と安全が守られますようにと願います。また、私たちも改めて災害への備えをしてゆきたいと思います。

 

 

 

私たちにとって「友」とは

 

 先週の礼拝メッセージでは、イエス・キリストが弟子たちのことを「友」と呼んでくださった箇所をご一緒にお読みしました。《もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである(ヨハネによる福音書1515節)

 イエスさまが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと。その愛の掟を実践するとき、イエスさまは私たちを《わたしの友》と呼んでくださることを共に聴きました。私たちは、互いに愛し合うことによって、イエスさまの友となるよう招かれています。

 

改めて、私たちにとって「友」とはどのような存在でしょうか。たとえば、「一緒にいて楽しい人」ということは、もちろんあるでしょう。いろいろな定義ができると思いますが、その根本には、「自分の存在を重んじてくれる人」ということがあるのではないでしょうか。自分の人格を尊重し、自分の存在を重んじてくれる人、それが友達。

どれだけ互いに軽口や冗談を言い合っていても、自分のことを重んじてくれている(大切にしてくれている)と確かに感じることができるとき、私たちはその人のことを友達だと思うのではないかと思います。自分も相手のことを重んじているし、相手も自分のことを重んじてくれている。それが、友達の関係性ではないでしょうか。

 

反対に、どれだけ表面的には親しげにしていても、内心では互いに相手のことを軽んじているのであれば、それは友達であるとは言えないでしょう。相手が自分のことを軽んじているのに、それでもその人の「友」でい続けようとすることは、私たちには難しいものです。場合によっては、自分を軽んじ傷つけてくる相手とは物理的・精神的に距離を取ることも必要です。 

また、他者を軽んじる言動に対して「否」を言うことも、私たちには大切なことです。誰かが軽んじられ傷つけられている現実に対しては、はっきりと「否」を言う必要があります。

 

 

 

《互いに愛し合いなさい》 

 

私たちは、自分を重んじてくれる相手に、信頼を抱きます。反対に、私たちは自分を軽んじる相手と信頼関係を結ぶことはできません。私たちの信頼関係の土台には、互を重んじ合う関係性があるのだと思います。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(同、12節)――。先週の礼拝メッセージでも共に聴いたこのイエスさまの愛の掟は、「イエスさまが私たちを重んじてくださったように、私たちも互いを重んじあう」、その愛と信頼の道を歩むよう招いて下さっているものです。

人格をもった、かけがえのない存在として、互いの存在を大切にすること。相手を見下したり軽んじたりするのではなく、互いに重んじること。この戒めの言葉を日々実践しようとする中で、私たちの間の信頼は深められ、その関係はまことの友なる関係へと形づくられてゆくでしょう。

 

 

 

私たちの信頼 ~イエスさまの言動はすべて愛に基づく

 

福音書が証しているのは、イエスさまこそが、私たちの存在を極みまで重んじてくださった方であるということです。イエスさまは私たちの存在を価高く貴い(イザヤ書434節)ものとして重んじるゆえ、私たちのためにご自身の命までも捨てて下さいました。

そのように、私たちをどこまでも重んじてくださる方であるからこそ、私たちはイエスさまに全幅の信頼を抱きます。イエスさまに、自分自身を委ねます。イエスさまのご意思は私たちにははかり知ることはできませんが、イエスさまのおっしゃる言葉はすべて――それが「イエス」であっても「ノー」であっても――、私たちへの愛に基づいているものだと信じているからです。イエスさまのなさることはすべて、私たちへの深い愛に基づいているものだと信頼しているからです。

 

 

 

百人隊長と部下の物語

 

 改めて、本日の聖書箇所ルカによる福音書7110節をご一緒に振り返りたいと思います。本日の物語では、百人隊長の部下が重い病気になり、百人隊長がイエスさまに助けを求めるところから始まります。百人隊長とは、当時のパレスチナに配備されていたローマ軍の指揮官のことを言います。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にあり、日常的に大勢のローマ軍が常駐していました。数十人~百人ごとに分けられた部隊を指揮するのが百人隊長の役割でした。本日の物語では、その部下の一人が病気で死にかかっていたと語られます。

 

ここで一つ心に留めておきたいことは、百人隊長はローマ人であり、ユダヤ人ではない、という点です。百人隊長はパレスチナに駐留する外国人でした。聖書独特の呼称を用いると、「異邦人」でした。

軍事力という面においては、確かに、百人隊長は強大な力をもっています。しかしユダヤ人社会における地位は低いものであったと想像されます。当時のユダヤ人社会において、外国人は侮蔑・差別の対象であったからです。日常生活においてもその交流には制限が課されていました。当時のユダヤ人社会においては、外国人の家を訪問することを避けたり、同じ食卓を囲むことを避けることが当たり前になされていました。現代の視点からすると問題であるのはもちろんのことです。ユダヤ人と異邦人の間には、目には見えない大きな「壁」があったのです。

 

しかし、本日のルカ福音書の物語において、外国人である百人隊長と近隣のユダヤ人たちとの間に親密な交流があったことが記されています。百人隊長の依頼を受けてイエスさまのもとにやってきたユダヤ人の長老たちは、熱心に願いました。《あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。/わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです5節)。百人隊長とユダヤ人の長老たちの間には、民族の壁を超えた信頼関係が育まれていたことが伺われます。そしてその信頼関係の土台には、互いを重んじ合う愛の関係性があったことが伺われます。

 

 またその愛は、他ならぬ百人隊長と部下の間に存在していたことをルカ福音書は語っています。改めて、冒頭の23節を読んでみましょう。《ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。/イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ》。

《ある百人隊長に重んじられている部下》と表現されています。単なる上司と部下の関係ではないのですね。上下関係の「壁」を超えた、互いを重んじ合う関係性を私たちはこの一文から読み取ることができます。別の翻訳は《この僕は、その百人隊長にとってかけがえのない者であった》と訳しています(岩波訳聖書)。百人隊長は、その部下をかけがえのない存在として重んじていた。そしてその想いは、部下にも確かに伝わっていたことでしょう。

 

 

 

《ひと言おっしゃってください》

 

 さて、ユダヤ人の長老たちの願いを受けて、イエスさまは民衆たちと一緒に百人隊長と部下がいる家に向かいました。家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって、言わせました。《主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。/ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください6節)

 ここで、百人隊長の友達が出てきます。伝言の役割を引き受けたこの友人がどのような人であったかは分かりませんが、百人隊長と深い信頼で結ばれた間柄である、まさに「友」であったのかもしれません。

 

先ほど、当時の社会において、外国人は不当な差別を受けていた、ということを述べました。当時、ユダヤの人々は、異邦人とは交際しない、ましてや家に客として招かれたりはしないという態度を取っていました。百人隊長はふと冷静になって、そのことを思い出したのでしょうか。イエスさまを家にお迎えすることを遠慮する伝言を友達に託したのです。しかし、部下の病を癒してほしい。ではどうしたらいいのか。百人隊長は次のように続きの伝言をしました。《ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください》。新しい聖書協会共同訳では《ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください》と訳しています。

百人隊長はこのことの根拠として、日ごろの自分の経験を付け加えました。《わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします8節)

私も部隊において、ある程度の権威をもっている者です。兵隊の一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。「これをしろ」といえば、その通りにします。ましてや、私よりもはるかに権威あるあなたのお言葉なら、その通りになるでしょう――とイエスさまへの全幅の信頼を伝えたのです。

 

イエスさまはこの百人隊長の信頼に、深く心を動かされました。《言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない9節)。ここでの「信仰」は「信頼」と言い換えることもできる言葉です。イエスさまは民衆の方を振り向いて、「これほどの信頼をユダヤの人々の中でさえ見出したことがない」と称賛されました。

このやり取りの後、使いに行った人々が家に帰ってみると、部下は元気を取り戻していました。部下の病いは癒されていたのです。

 

 

 

イエスさまの愛を感じ、信頼の中で祈る

 

本日は百人隊長の部下が癒された物語をご一緒にお読みしました。重篤な病いがイエス・キリストによって癒される、いわゆる奇跡物語の一つです。本日はむしろ、最後に奇跡が起こるまでの過程に、私たちの心を向けたいと思います。物語は、百人隊長が部下を重んじ、大切にする言動から始まりました。すなわち、愛から始まりました。またその中で、ユダヤ人の長老や友達との間に結ばれていた信頼関係も示唆されました。そしてその愛と信頼の関係性は、イエスさまとの出会いにおいて頂点に達します。

 

百人隊長はイエスさまに対して全幅の信頼を置いていました。《ひと言おっしゃってください》とだけ言い切れるほどの。そしてその信頼は、イエスさまが私たちを重んじて下さっている――愛して下さっていることの確信に基づいているものなのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

イエスさまが私たちのことを極みまで重んじて下さる方であると信じるゆえ、百人隊長は《ひと言おっしゃってください(ただ、お言葉をください)》と願うことができたのだとご一緒に受け止めたいと思います。私たちも、イエスさまの発する言葉はすべて神さまの愛に基づいている言葉だと信頼するゆえ、イエスさまに《ただ、お言葉をください》と祈ることができます。私たちがイエスさまの愛を感じ、その信頼の中で祈るとき、イエスさまは私たちに応えて下さるでしょう。神さまの愛の言葉を返してくださるでしょう。また、愛と信頼の関係性が育まれる中で、私たちの間に癒しが生じてゆくでしょう。

 

いまご一緒に、イエスさまの愛に私たちの心を開きたいと思います。