2023年9月17日「愛は、すべてを完成させるきずな」

2023917日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編37722節、ルカによる福音書151132節、コロサイの信徒への手紙31217

愛は、すべてを完成させるきずな

 

 

北アフリカのモロッコで発生した地震から、一昨日で1週間が経ちました。この度の地震では約3000人の方々が亡くなったと報じられています。

また、同じく北アフリカのリビア東部で11日に発生した大雨による大洪水では、8000人以上の方が亡くなったと報じられています。亡くなった方の数はさらに増えるであろうとのことです。

いま深い悲しみと困難の中にある方々の上に、神さまからの慰めがありますように、必要な支援が行き渡りますようにと願います。

 

国内でも、大雨や台風による被害が続いています。7月の豪雨で被災した秋田では、いまも懸命な復旧作業が続けられています。秋田楢山教会の皆さま、この度の7月の豪雨で被災された皆さまを覚えて、引き続き、祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

来週の920日から、オミクロンXBB.1.5系統対応のワクチンの接種(第7回)が始まります。先週もお話ししたように、この度の新型ワクチンは、健康への影響があまりにも大きいものです。いますでに、多くの方々が、ワクチンが原因であるとは気づかず、基礎疾患の悪化や何らかの体調不良に苦しんでいるであろうことを懸念しています。これまでは追加接種をしてこられた方も、もうこれ以上の追加接種はしないよう、私からは強くお願い申し上げます。

 

 

 

聖書が語る愛 ~相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること

 

冒頭でお読みしました聖書の言葉の中に、印象的な言葉が出てきました。新約聖書コロサイの信徒への手紙314節《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。

愛はすべてを完成させるきずな――印象的な言葉ですね。愛唱聖句(大切にしている聖書の言葉)にしている方もいらっしゃることでしょう。

 

 はじめに、聖書が語る愛はどのようなものなのか、ご一緒に確認をしておきたいと思います。聖書の中の「愛」は原語のギリシャ語では「アガペー」と言います。このアガペーという言葉にはもちろん「好き」「大好き」という感情も含まれていますが、それだけを表す言葉ではありません。たとえば、聖書におけるアガペーは、感情的には好きではない相手に対しても使うことができる言葉です。不思議なことのように思われるかもしれませんが、感情的には嫌い・苦手な相手であってもその相手を、「愛する」ということが、アガペーにおいては可能なのですね。というのも、聖書における愛は、相手を「大切にする」という具体的な姿勢を表すものであるからです。

 

キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、愛という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳したそうです。とても素晴らしい訳ですね。愛するとは、言い換えると、大切にするということ。「好き」という感情だけではなく、「大切にする」という具体的な行動を表しているのが、聖書における愛です。

 

私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」。それが「愛する」ということであると受け止めています。このアガペーなる愛は、相手のことが「好き」か「嫌い」かを超えて、相手の存在そのものを尊重し、大切にするように働くものです。

 

 

 

《愛は、すべてを完成させるきずな》

 

改めて、コロサイの信徒への手紙314節をお読みいたします。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。

新しく出版された聖書協会共同訳では、《さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です》と翻訳されていました。「きずな」と訳すか、「帯」と訳すかで、また少しイメージが違ってきますね。

この14節の前の部分では、怒りや憤りや悪意、そしりに基づいた言動を「脱ぎ捨て」、憐れみの心や慈愛、謙遜、柔和、寛容さを「身に着ける」べきことがすすめられています。衣服のイメージで語られていることが分かります。そのイメージを踏まえると、聖書協会共同訳の「帯」という翻訳もまたふさわしいものであることが分かります。

 

謙遜や寛容などの徳目を身に着けるべきことは大切ですが、愛がないと、それらの徳目は本当には身に着かない。それはまるで帯がない着物のように、私たちの体からずり落ちてしまう。愛こそはこれらの徳目を私たちにしっかりと結び付け、そのすべてを完全に結ぶ「帯」または「きずな」である――本日はご一緒にこのことを受け止めたいと思います。

 

先ほど、聖書が語る愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」だと述べました。この愛に姿勢に基づいて、大切な誰かのために、言葉を紡ぎ、行動するとき、私たちがこれまで身に着けてきたものは、より大きな力を発揮してくれることでしょう。愛こそは、これまで身に着けてきたものを固く結びあわせ、完成に導くきずなだからです。

 

 今朝、ここに集ったお一人ひとりが、聖書が伝えるこの愛に基づき、ご自分のかけがえのない使命と役割を果たしてゆくことができますようにと願っています。

 

 

 

聖書が語る愛 ~神さまの愛

 

 聖書が語る愛について、もう一つ、お話ししたいことがあります。それは、聖書における愛(アガペー)とは、第一に、「神の愛」を意味するということです。愛は、神から生じているものだと聖書は受け止めているのですね。だからこそ、他の様々な徳目よりも根本的なものとして愛が位置づけられているのです。

 

 愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」。この表現を踏まえますと、他ならぬ神さまが、私たち一人ひとりの存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしてくださっている、その愛を語っているのが、聖書であると受け止めることができます。

 

 神さまからの愛を語る言葉は聖書にはたくさんありますが、たとえば、旧約聖書のイザヤ書には次の言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする(イザヤ書434節)

旧約聖書(ヘブライ語聖書)の主人公であるイスラエル民族に対して、神さまご自身が語った言葉です。この言葉はいま、イエス・キリストを通して私たち一人ひとりに語りかけられている言葉として受けとめることができます。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。神さまは私たち一人ひとりの存在を極みまで重んじてくださっている方です。

 

新約聖書のヨハネによる福音書にはこう記されています。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである316節)

神さまは、独り子なるイエス・キリストをお与えになったほどに、この世界を愛して下さった。いまも、私たち一人ひとりの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっている、その神さまの愛を、ヨハネ福音書は証ししています。

どんなものも、イエス・キリストによって示されたこの神さまの愛から、私たちを引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙839節)。神さまの愛がいつも私たちと共にあることを、聖書全体が証ししています。

 

 

 

新しい掟 ~《互いに愛し合いなさい》

 

 神さまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にすること――これが、聖書が私たちに示す「道」です。神さまが私たち一人ひとりの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっているように、私たちも互いを重んじ、大切にし合うこと。イエスさまはそれを、「新しい掟」として私たちに与えて下さいました。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる(ヨハネによる福音書133435節)

 

互いに愛し合うこと――言い換えると、互いに重んじ合い、大切にし合うこと。それが、私たちが守るべきただ一つの、新しい掟であると語られています。

 

イエスさまが私たちを大切にしてくださったように、私たちも互いに大切にし合うこと。そのことによって、私たちがキリストの弟子であることを周囲の人々が知るようになる、とイエスさまは語っておられます。

日々の生活において、愛に根ざした言葉を発し、行動を起こしてゆくことが大切であることを思わされます。コロサイの信徒への手紙の表現で言えば、《愛を身に着ける》ことですね。私たちは一人ひとり、互いを重んじ、大切にし合う道を歩んでゆくよう神さまから招かれています。

 

 

 

キリストの平和

 

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。この言葉に続けて、コロサイの信徒への手紙は次のように語ります。315節《また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです》。

 

「キリストの平和」という言葉が出てきました。このキリストの平和は、私たちが互いを大切にし合う心から生まれる平和です。コロサイの信徒への手紙は、キリストの平和が私たちの心を支配するようにしなさい、と勧めます。この平和にあずからせるために、私たちは招かれて、一つの体とされているのだ、と。

 

互いを大切にすることは、必ずしも誰とでも仲良くすることを意味するものではありません。重要なのは、目の前にいる人が誰であっても(たとえ個人的には苦手な人だったり、好きになれない人であったとしても)、その人格を尊重しようとする心であり、その姿勢です。少なくとも、自分から相手のことを軽んじるようなことはしない。意地悪をしたり、相手を意図的に傷つけるような行為はしない。そう心に決めている姿勢が重要であるのだと思います。

「互いを軽んじる」ことの連鎖をいかに断ち切ってゆけるか、これはいまを生きる私たちにとってとても喫緊の課題です。

 

 

 

共に、愛と平和の道を

 

 私たちの近くに遠くに、平和ではない現実があります。平和ではないそれらの現実は、互いを大切にすることができていないことから生じていると受け止めることができるでしょう。このことを踏まえると、キリストの平和とは、互いを「軽んじる」連鎖を断ち切ることから生まれ出る平和であると言うこともできます。

 私たちの生きるこの世界では、互いを軽んじることの連鎖が途切れることなく続いています。互いを傷つけあうことの連鎖が続いています。生命と尊厳が軽んじられる、この悲しい負の連鎖をいかに断ち切ることができるか、それが、いまを生きる私たちにとっての切実なる課題です。

 

イエス・キリストが私たちに願っておられる平和の道は、互いを「軽んじる」ことの連鎖を断ち切る道です。この連鎖を断ち切るべく、私たちが一歩を踏み出す決意をすることをイエスさまは願っておられます。そうして私たちが互いを重んじ、大切にし合う、平和の道を歩んでゆくことを願って下さっているのだとご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

どうぞ私たちが愛を身に着け、愛をきずなとして、共にキリストの愛と平和の道を歩んでゆくことができますようにと願います。