2023年2月26日「荒れ野の試み」

2023226日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:申命記61019節、ローマの信徒への手紙10813節、ルカによる福音書4113

荒れ野の試み

 

 

 

ウクライナ侵攻から1

 

224日、ロシアがウクライナに侵攻してから1年を迎えました。戦争は長期化し、いまだ停戦の合意への糸口が見えない状況にあります。ロシアを支援する中国、ウクライナを支援するアメリカとNATOはそれぞれ、積極的に軍事支援を行っており、あたかも戦争を終わらせる意思がないかのようです。一方の勝利ではなく、両国を一刻も早く停戦の合意へ至らせることこそが、関係諸国が目指す課題ではなかったのでしょうか。

 

どうぞ停戦の合意への糸口が見出されますように、これ以上、ウクライナとロシアの人々の命が奪われ、その尊厳が傷つけられることがないようにと願います。また今一度、平和への意志を私たちの内に呼び起こしたいと思います。

 

 

 

受難節

 

 222日(水)より、教会の暦で「受難節」に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。受難節はイースター前日の48日(土)まで続きます。本日はご一緒に受難節第1主日礼拝をおささげしています。

 

 受難節は「四旬節」とも呼ばれます。四旬とは40日を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。

40」は、聖書の中で度々出て来る数字です。モーセとイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を旅したのは40年間でした(旧約聖書の『出エジプト記』より)。「荒れ野の40年」という表現もあります。また、いまお読みしましたルカによる福音書4113節においても、40日間という言葉が出て来ましたね。イエス・キリストが荒れ野にて40日の間断食をした際、悪魔から誘惑を受けられる場面です。悪魔の「石をパンに変えてみたらどうだ」との誘いに、イエスさまが「人はパンだけで生きるものではない(人はパンのみで生くるにあらず)」と聖書の言葉を引用し誘惑を退けるこの場面はよく知られているものですね。

 

 

 

荒れ野の試み

 

 本日の「荒れ野の試み」の場面(ルカによる福音書4113節)は悪魔が出てきたり、映画のように舞台が次々と変わったりして、現代を生きる私たちにはファンタジーのように感じられるかもしれません。しかし一方で、この場面において悪魔が提出している問いは私たちにとって非常にリアリティのあるものです。

 

悪魔はイエスさまに三つの提案をしました。一つは、「神の子なら、石をパンに変えてみたらどうか」という提案です。二つ目は、「自分にひれ伏すなら、この世のあらゆる権力と繁栄とを与えよう」という提案です。三つめは、「神の子なら、神殿の屋根から飛び降りてみせたらどうか」という提案です。イエスさまはこれらの試み・誘惑をすべて、聖書の御言葉をもって斥けられました。

 

 

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 ~「人間の自由」という主題

 

 ロシアの小説家ドストエフスキー18211881年)は、代表作『カラマーゾフの兄弟』の中で、この荒れ野の試みの箇所を取り上げています。ドストエフスキーはこの場面に、「人間の自由」という主題を読み取っています。もしも私たちが悪魔の提案を受け入れるなら、そのとき私たちが悪魔の足元に差し出してしまうものが「自由」である、としているのですね。イエス・キリストは私たち人間の自由を奪わないために、悪魔の提案を斥けてくださったのだとドストエフスキーは考えます。

 

 簡単にではありますが、『カラマーゾフの兄弟』のその場面をご紹介したいと思います。『カラマーゾフの兄弟』の中でも特に名高い「大審問官」の場面です。

 

登場するのはイワンとアリョーシャという若い兄弟。兄のイワンは神の存在を否定している無神論者、弟のアリョーシャは神を熱心に信じる修道僧です。神の存在を否定する兄イワンは、修道僧である弟のアリョーシャに「大審問官」という自分の作った長編詩を語って聞かせます。

 詩の舞台は15世紀のスペイン、セヴィリア。カトリック教会による恐ろしい異端審問が日夜行われていた時代です。異端審問を取り仕切る一人の枢機卿の前に、ある日、イエス・キリスト御自身が現れます。年老いた異端審問官は目の前にいるその方がどなたであるかを知りつつ、キリストを逮捕し、尋問します。大審問官がキリストに投げかけた言葉は驚くべきことに、「今更、何をしに来た?」というものでした。キリストを前に、大審問官はイエス・キリストを非難する言葉を投げかけたのです。

 

 大審問官がその際に取り上げるのが、荒れ野の試みの場面です。キリストは悪魔の「石をパンに変えてみろ」との提案を、《『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある》と聖書の言葉(申命記83節)をもって斥けました。大審問官は、イエス・キリストのその選択は間違っていると主張するのです。

石をパンに変えれば、人々は感謝にあふれるおとなしい羊のようにキリストについてきたであろう。《ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしもその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。で、おまえは、人間はパンだけで生きているのではないと反論したわけだ》(亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟 2』光文社古典新訳文庫、2006年、267268頁)

 

 石をパンに変えるという奇跡を起こせば、人間はキリストにすぐにでも服従するであろう。けれどもキリストは「奇跡」によって人を信じさせることを拒否した。天上のパン、すなわち、本人の「自由な信仰」「自由な良心」によって生きる道を切り開こうとされた。

 それに対し、大審問官は異を唱えます。キリストは人々に天上のパンを与えようとしたが、人間が実際に求めているのは地上のパンであるのだ、と。それがほとんど大多数の人間の真実なのだ、と大審問官は主張します。

確かに一握りの人は地上のパンではなく天上のパンを求めて生きることができるかもしれない。しかしそれは本当に一握りの人である。それらの人々の以外の、圧倒的多数の人々は違う。圧倒的多数の人びとは、地上のパンが確保されないと平安でいられない。まず地上のパンが確保されることをこそ、圧倒的多数の人々は求めている。それが現実であり、我々人間の本性である。あなたは、これら圧倒的多数の人々の存在をどう考えているのか。自分たち教会はこの1500年間、これらの憐れな迷える羊たちのために、地上のパンを与え続ける役割を担ってきたのだ、と大審問官は告白します。

《彼らが自由であるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる、『いっそ奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』》(同、269頁)

 

 

 

「自由である」ことの重さ

 

兄のイワンが弟のアリョーシャに物語った長編詩「大審問官」はこのような内容でした。『カラマーゾフの兄弟』のこの個所を読むと、「人間の自由」ということについて考えさせられます。イエス・キリストは私たち人間の自由のために、悪魔の誘惑を斥けてくださったわけですが、と同時に、その自由が時に、私たち人間にとって重荷ともなるという現実があります。

 

 確かに、考えてみれば、私たちにとって、「自由である」ことは大変なことです。一つひとつ自分で考え、自分で選択し、決断してゆかねばならないからです。私たちが自由であるためには、大変なエネルギー、また意志と勇気が必要とされるでしょう。またそこには、安心や安定が伴わないことも多いでしょう。そうではなく、誰かが代わりに考えてくれたら、誰かが決めてくれたら楽であるのに……とつい考えたくなってしまう瞬間が、私たちにはあるかもしれません。自分の判断を誰かに・何かに預けて生きることへの強い欲求というのも、私たちの内に存在しているのではないでしょうか。私たちは自由でありたいと願いながら、同時に、その自由を自ら放棄したいと心のどこかで思っている部分があるように思います。

 

 

 

カルト宗教の問題

 

 昨年はカルト宗教の問題に改めて社会の関心が向けられた年でした。旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)をはじめ、カルト宗教の問題性に改めて社会の関心が向けられました。カルト宗教団体は、自由を重荷に感じる私たちの心の隙間に、巧みに入り込んでくるものです。

 

 カルト宗教は、私たちから自由な意思や主体性を奪おうとします。自由は、人権の最も根本的な要素の一つであり、それを奪うことは人権侵害であることは言うまでもありません。しかしはじめは、カルト宗教団体の教えが、私たちの目に魅力的に映ってしまうことを思わされます。その団体の教えに従っていれば、自分の頭で考えなくていいと思うからです。自分で選択しなくていい、自分で決断しなくていい、必要なことは、その団体が指示してくれる。生活に必要なものは、その団体が与えてくれる。自分たちはその団体の指示にただ従順に従っていれば、幸福になれる……(?)。そのような生活は、日々強いストレスにさらされ続けている現代の私たちにとって、確かに魅力的です。しかし、その自由の放棄と引き換えに、やがて私たちの魂は損なわれ、傷つけられてゆきます。魂の健やかさにとって、自由は欠くことのできない最も大切な要素の一つであるからです。

 

 私たちがすべてを委ねることができるのは、神さまお一人だけです。私たちは他者に、あるいはある団体・組織に自分のすべてを委ねることはできません。それは教会についても同様です。教会は神から呼び集められた人間の集まりです。当然のことですが、教会は神とイコールではありません。よって、教会の教えることをすべて「正しい」ものとして、私たちのすべてをゆだねることは、本来的に不可能なことです。教会が教えることがすべて「正しい」ことはあり得ず、折々に誤った判断を下し得ることは、これまでのキリスト教の歴史を見れば明らかなことです。

 

 いまカルト宗教の被害を受け、苦しんでいる方々の救済のためにできることを祈り求めると共に、私たち自身、自らの内に、自由への意志を新たにすることが求められています。私たちの自由を譲り渡すよう試みてくる声に対しては、私たちははっきりと「否」を突きつけねばなりません。

 

 

 

自由を譲り渡す誘惑

 

 カルト宗教の問題に限らず、私たちは日々、自由を譲り渡す誘惑に直面し続けています。自分の頭で考えるのは大変で、しんどいことだから、誰かに「こうしなさい」と指示してほしい――この誘惑に、私たちは日々直面していると言えるのではないでしょうか。必要なものが日々ちゃんと支給されるのであれば、自由でなくてもいいとも思ってしまう。安心と安定が保障されるのであれば、それと引き換えに、自分の自由や主体性を譲り渡してもいいと思ってしまう。それはそれだけ、私たちの内から余裕が失われて、常に心身に負荷のかかった状態にあるということでもあるでしょう。

 

 たとえば、この3年間のコロナ下の生活。皆さんも非常に重苦しい日々を過ごしてこられたことと思います。そのような、安心と安定が見失われた、心身に常に負荷がかかった日々の中で、しかしそれでも、自分の頭で考え判断することの大切さを私自身、改めて痛感しています。国や専門家の方々の指示に従うことはもちろん必要ですが、国や専門家が間違うこともあります。権威ある人の指示にただ従うのではなく、私たちはやはり、一つひとつの物事を自分の頭で考え、自らの責任において行動してゆくことが大切でありましょう。「感染対策」の名目の下、私たちはしばしば、自らの自由を譲り渡してこなかったかと自問させられます。

 

 

 

自由に、尊厳をもって、この道を歩んでゆくことができますように

 

 再び、イエスさまのお姿に私たちの心を向けたいと思います。イエスさまは荒れ野で悪魔の試みをはっきりと斥けられました。イエスさまは奇跡的な出来事や圧倒的な権威によって、人々を有無を言わさずに服従させることを拒否されました。そうではなく、個々人の自由な信仰によって、自由な良心によって、私たちが自ら神さまの道を歩むことを願ってくださいました。私たち一人ひとりが自ら決意して、神の言葉に基づき、愛と平和の道を歩むことができることを信じて――。

 

自由は、私たち人間の尊厳と関わっている事柄です。イエスさまは私たち人間の尊厳を最後まで守ろうしてくださいました。その尊厳の光は、いま、私たちの内にともされています。消え去ることのない光として、私たち一人ひとりの内にともされています。

 

 

私たち一人ひとりが自由に、尊厳をもって、この道を歩んでゆくことができますようにと願います。