2023年4月16日「復活のキリストとの出会い」

2023416日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編16111節、ヨハネの黙示録1969節、ルカによる福音書241335

復活のキリストとの出会い

 

 

 

新しい年度が始まり……

 

 新しい年度がはじまり、2週間ほどが経ちました。新しい環境で生活を始めた皆さんも、少しずつ慣れてきた頃であるかと思います。私たちが住む花巻は、例年より少し早く先週が桜が満開でした。新しい地で生活をしている皆さんの上に神さまの祝福とお支えをお祈りしています。

 

先週はイースター礼拝をご一緒におささげしました。私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。イエス・キリストのご復活を心に留め、復活の命の光を希望として歩む時期です。本日は復活節第2主日礼拝をおささげしています。

次週は礼拝後に教会総会を開催する予定です。どうぞご予定ください。

 

 

 

2022年度の主題聖句 ~愛は、すべてを完成させるきずな

 

昨年度の2022年度は、私たち花巻教会はコロサイの信徒への手紙314節を主題聖句として歩んできました。《これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです》。

 

改めて、聖書が語る愛はどのようなものなのか、ご一緒に確認をしたいと思います。聖書における愛は、原語のギリシャ語では「アガペー」と言います。聖書におけるアガペーは第一に、「神の愛」を指します。私たちから生じる愛というより、神さまから生じている愛を指しています。だからこそ、最も大切なものとして、愛が位置付けられているのですね。

 

アガペーにはもちろん「好き」「大好き」という感情も含まれていますが、それだけを表す言葉ではありません。たとえば、聖書におけるアガペーは、感情的には好きではない相手に対しても使うことができる言葉です。感情的には嫌い・苦手な相手であってもその相手を、「愛する」ということが、アガペーにおいては可能なのですね。というのも、聖書の愛には、相手を「大切にする」という具体的な姿勢を表すものであるからです。

 

キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、「愛」という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳したそうです。とても素晴らしい訳ですね。「愛する」とは、言い換えると、「大切にする」ということ。「好き」という感情だけではなく、「大切にする」という具体的な行動を表しているのが、聖書における「愛」という言葉です。

私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」。それが「愛する」ということであると受け止めています。このアガペーなる愛は、相手のことが「好き」か「嫌い」かを超えて、相手の存在を重んじ、大切にするように働くものです。

 

新しく出版された聖書協会共同訳では、コロサイの信徒への手紙314節は《さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です》と訳されています。あらゆる徳目を結び合わせ、完成に導く《帯》が愛であると言うのですね。

イエス・キリストが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として重んじ、大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にし合うこと。そのアガペーなる愛の道を歩むよう、私たちは招かれています。

 

様々な困難な現実が私たちの目の前にはありますが、聖書が語る愛を心に刻み、愛を私たちの「帯/きずな」として、これからもご一緒に歩んでゆきたいと願っています。

 

 

 

エマオへの道

 

冒頭でご一緒にルカによる福音書241335節をお読みしました。二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かう道すがら、復活されたイエス・キリストと出会う場面です。

 

イエスさまの十字架の死に打ちのめされ、暗い顔をして歩いていた二人ははじめ、自分たちと一緒に歩むお方がイエスさまだとは気づきませんでした。一緒に食事の席に着き、イエスさまが賛美の祈りを唱えパンを割いてお渡しになったとき、二人の目は開け、目の前にいる方がどなたであるか分かりました。彼らの目が開かれると同時に、イエスさまのお姿は見えなくなりました。二人は、《道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか32節)と語り合いました。

 

不思議な物語ですが、これまでたくさんの人々の心を捉えてきた物語です。復活されたイエスさまがすぐ隣にいてくださっていたのに、心の目が遮られていて、イエスさまだとは分からなかった弟子たちの姿に、共感を覚えるからかもしれません。また、その時は気付かなかったけれど、思い起こすと、イエスさまが聖書の説明をしてくださっていたとき心が燃えていた、という言葉に、私たち自身の心も熱くなるからかもしれません。このエマオへの途上の物語が語るように、私たちは復活のキリストに出会っていても気付かない時もあるし、ゆっくりと時間をかけて、そのことに気付くこともあるでしょう。

 

たとえ私たちの心の目が遮られていても、まどろんでいても、イエスさまの愛はいつも私たちに注がれています。その愛は確かに、私たちの心の奥底にともされています。ある瞬間、私たちの心の目は開かれ、内に燃える愛に気付いてゆきます。私たちの内に燃えるイエスさまからの愛、またそして、イエスさまへの愛に、です。

 

皆さんが聖書を読んでいて心が燃えたのは、どのようなときでしょうか。そのとき、目には見えなくても、よみがえられたイエスさまは私たちの傍らにおられ、愛と命の言葉を語りかけてくださっていたのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

ルカ福音書のこの箇所では特に、聖餐式において、私たちは復活されたイエスさまと出会うことができることが語られています。聖餐の場において、私たちは復活し昇天されたイエスさまを共に思い起こし、神さまの右の座におられるイエスさまと活き活きとした交わりが与えられることが語られています。

 

 

 

復活のキリストとの出会い ~私自身の経験

 

 私自身の心が燃えた経験を少しお話ししたいと思います。

それは、大学生のときでした。私は大学3年生から4年生にかけて、心の調子を崩した時期がありました。そこにはさまざまな要因が関わっており、ひと言で理由を説明するのは難しいことでもありますが、いま振り返ると、ある種の抑うつ状態が生じていたように思います。大学の授業にもしばらく出ることができず、そのようなこともあって1年留年することになりました。

 当時の自分の心境をたとえて言いますと、まるで暗い地下道を下りていっているような感覚でした。または、暗い井戸の中、階段を一段一段降りてゆく感覚と言いましょうか。自分の心の底の方に深く潜ってゆくような経験。それはとても苦しい経験でしたが、その一番苦しかった時期に、自分にとって、とても大切な経験をしました。復活のキリストと出会った経験です。

 

そのとき、机に向かって考え事をしていた私はふと、自分の心に誰かが語りかけてくれたように感じました。その声をあえて言葉にするなら、「よい」というひと言でした。「あなたは、あなたそのもので、在って、よい」と、よみがえられたイエスさまが心に語りかけてくださったように感じたのです。

 その語りかけ――その喜ばしきひびき――を通して、私は、自分の存在そのものが全肯定されたように感じました。心と体と魂をすべて含めた私そのものが、いま、大いなる存在から祝福されている。わたしは、わたしそのもので、在って、よいのだ、と思いました。

旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記に、天地創造の際、神さまがご自分の造られた一つひとつの存在を御覧になって、「極めて良かった」とおっしゃったという場面が出て来ます131節)。その「よい」という神さまの声が、いま、自分を包んでいるように感じました。神さまの「よい」という祝福の声は、天地創造のはじまりの時だけではなく、いまこの瞬間も、私たち一人一人の存在を包んでいる。それは言い換えると、神さまが私たち人間を天地創造の始まりから愛してくださっている(エフェソの信徒への手紙14節)という実感でした。私にとって、暗い穴の底に泉を見出したような経験でした。神さまの愛に触れる中で、そのとき、私の心は確かに燃えていたと思います。いまも、私の内で燃え続けています。

 

確かに、私たちは過ちを犯す存在です。それぞれに、様々な弱さをもっています。確かに私たちは罪深い存在であるとも言えるでしょう。けれども、私たちが存在していること自体は、「よい」ものである。私たちの存在そのものは、神さまの目に「極めてよい」ものとして映っていることを私は確信しています。私たちの罪よりもさらに深きところで、神さまの「よい」という祝福の声はひびき続けているのだと信じています。

 

 

 

心を燃やされながら

 

私自身の経験について少しお話ししました。これが私自身のエマオへの道の出来事、復活のキリストとの出会いと言えるのではないかと思います。皆さんの心が燃えた経験についてもまた聞かせて下さい。私たちにはそれぞれのイエスさまとの出会い方、それぞれのエマエへの道があることと思います。

 

 本日の聖書箇所において、復活のキリストと出会った二人の弟子は、心を燃やされながら、すぐにエルサレムに戻ります。すると、十一人とその仲間が集まっていて、「本当にイエスさまは復活して、ペトロに現れた」と言いました。二人も、エマオへの道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスさまだと分かったことを伝えました3335節)

イエスさまがまことに復活されたことを確信するようになった弟子たち。ここから新しい物語――教会の誕生の物語が始まってゆきます。

 

 

 この礼拝に集められた一人ひとりが、心を燃やされながら、イエスさまの愛と命を携え行くことができますように。