2023年4月30日「私が命のパンである」

2023430日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記16416節、コリントの信徒への手紙一8113節、ヨハネによる福音書63440

私が命のパンである

 

 

2023年度 主題聖句

 

先週4月23日(日)の礼拝後、花巻教会の2023年度定期総会を開催しました。この2023年度も共に祈り合い、支え合いながら、歩んでゆきたいと思います。

 

今年度の主題聖句として選んだのは、コリントの信徒への手紙一122627節です。《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。/あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》。

私たちは共に一つのキリストの体に結ばれており、それぞれが多様な、かけがえのない役割を果たしていることを伝える聖書の言葉です。

 

体の各部分が異なった働きをしているように、私たちにはそれぞれ神さまから、異なった、かけがえのない役割が与えられている。ただ「違いが存在している」というだけではなくて、そこに「かけがえのなさ(固有性)」を見出しているのがこの御言葉の特徴です。

 

コリントの信徒への手紙一12章から汲み取ることができるもう一つのメッセージ、それは、私たちはそれぞれの役割を通して、互いに補い合い支え合っているということです。体の各部分が異なる働きを通して互いに補い合っているように、私たちはそれぞれ、固有の役割を通して、「互いに補い合っていること(相互補完性)」を伝えています。

 

聖書が語る多様性。それは言い換えると、「違いがありつつ、一つ」である在り方です。違いを否定して一つになるのではなく、むしろ違いを通して一つとなる在り方を聖書は伝えてくれています。

 

またそして、手紙の著者のパウロは、私たちが「違いがありつつ、一つである」ために、大切な役割を果たすのは「弱さ」であると述べています。少し前の部分ではパウロはこのように語っています。《体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです22節)

弱さは「要らない」ものではなく、私たちにとってなくてはならない役割を果たしてくれているものである。なぜなら、私たちの目に弱く見える部分があることで、私たちは互いに支え合ってことを学んでゆくからです。《それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています25節)

 

これらのことを踏まえて語られているのが、年間主題聖句として選んだ122627節です。《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。/あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です2627節)

 

弱さを互いに受け止める中で、私たちの間には共に生きる道が切り開かれてゆきます。共に生きるその道は、《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ》道です。私たちは共に「一つのキリストの体」に結ばれており、苦しみも喜びも共に分かち合う道を歩んでゆくよう招かれています。

 

どうぞ私たちが違いを認め合い、弱さを受け止め合って、互いを大切にしてゆくことができますように。花巻教会につらなる一人ひとりが、神さまから与えられているかけがえのない使命・役割を果たしてゆくことができますように。この新しい年度もご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

2023年度 祈りの課題

 

 花巻教会の2023年度の祈りの課題は次の通りです。どうぞお祈りにお覚えください。

 

・長らく礼拝に来ることができていない方々を覚えて

・施設に入居されている方々、礼拝に集うことが困難になってきている方々を覚えて

・新来会者の方々を覚えて

・地域に根ざし、地域の課題を共に担う教会となることができますように

・東日本大震災、原発事故を覚えて

・トルコ・シリア大地震をはじめ、様々な災害によって被災された方々を覚えて

・新型コロナウイルス後遺症、新型ワクチン後遺症によって苦しんでいる方々を覚えて

・ウクライナでの戦争が停戦へと至りますように

・神さまから、私たち一人ひとりに与えられているかけがえのない使命・役割を果たしてゆくことができますように

 

 

神さまの願い 

 

 私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。イエス・キリストのご復活を心に留め、復活の命の光を希望として歩む時期です。本日は復活節第4主日礼拝をご一緒におささげしています。

 

 本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書63440節の中にも、「復活」という言葉が出てきました。イエス・キリストが語られた言葉の一部です。《わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。/わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである》3940節)

 

 ここでは、神さまの御心(願い)とは、誰一人失われることなく、終わりの日に復活させられることだと語られています。イエスさまを信じる人がみな永遠の命を得ること、終わりの日にその人を復活させること、それが神さまの願いであるのだとイエスさまはお語りになります。そしてその神さまの願いを実現するため、自分は天から降って来たのだ、と。《わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである38節)

 

 私たちの人生は、死をもって終わってしまうのではない。私たちの存在は、死をもってしても失われることはない。「私が私であること」「あなたがあなたであること」のかけがえのなさは失われず、イエスさまの愛と復活の命の内に抱きとめられる。私たち教会は、その復活の命を希望として信じ続けてきました。

 

 

 

誰一人失われることなく

 

 心に残るのは、《一人も失わないで》という言葉です。誰一人失われることなく、復活の命に結ばれることが、神さまの願いであるのだとイエスさまはお語りになります。それは他でもない、私たち一人ひとりの存在が神さまの目に価高く、尊い(イザヤ書434節)存在だからです。

 

 この言葉と関連して思い起こすのは、ヨハネ福音書316節です。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。ヨハネ福音書の中で、最もよく知られた御言葉の一つです。

神さまは私たちを極みまで愛するゆえ、御子イエス・キリストを私たちのもとにお送りくださった。イエスさまと出会った一人ひとりが、一人も失われることなく、永遠の命を得るために。

またそして、イエスさまも私たちを極みまで愛するゆえ、十字架の上で、その命をおささげくださいました。私たちが誰一人失われることなく、神さまの愛と復活の命に結ばれるために、です。

 

 

 

《わたしが命のパンである》

 

イエスさまは、私たちに愛と復活の命を与えるご自身の体を、《命のパン》と形容しておられます。《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない35節)。面白いと言えば、面白い表現ですね。まるでアンパンマン(!?)のようだと思う人もいらっしゃるかもしれません。

聖書は、十字架上のイエスさまのお体をパンとして受け止めています。イエスさまは十字架の上で、ご自身の体を一つのパンとして私たちに与えて下さった。そしてそれは、本日の聖書箇所にもありますように、イエスさまご自身がお語りになった表現でもあります。《わたしが命のパンである》、と。

 

麦で作ったパンによって、日々私たちは栄養や活力を得ています。日ごとのパン(糧)は私たちにとってなくてはならないものですが、ここでの《命のパン》は日ごとのパンとはまた異なるものとして語られています。私たち一人ひとりに、愛と復活の命を与えるもの、それが《命のパン》であり、イエスさまご自身であると語られているのです。

 

私たちにとって生きてゆく上で、日ごとの糧は欠かすことができません。と同時に、私たち人間存在にとって、愛と復活の命は欠かすことができないものです。たとえたくさん飲み食いして、お腹が満腹になっていたとしても、私たちは心の奥底に別の飢え渇きを感じていることがあるでしょう。この飢え渇きとは、神の愛と復活の命への飢え渇きであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

私たち人間存在は、心の奥底では、魂を満たす命のパンと水を求めているのではないでしょうか。《主よ、そのパンをいつもわたしたちにください34節)、《主よ、渇くことがないように、…その水をください415節)……。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストその方が、この私たちの魂の飢え渇きを癒す《命のパン》《命の水》だと証ししています。《わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない》、《わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る414節)

 

 

 

その時は「今である」

 

 私たちがその命のパンと水を得るのは、いつのことでしょうか。本日の聖書箇所では《終わりの日に》という言葉が出てきます3940節)。いつか、終わりの日に、必ず私たちは復活させられる、それを私たち教会は希望として信じ続けてきました。

 と同時に、もう少し後の箇所では、それが未来形ではなく、現在形で語られています。《はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである64748節)。その時は「今である」ことが語られているのですね。

 この言葉を踏まえますと、私たちはいつか、復活の命に結ばれるというだけではなく、いま、復活の命に結ばれていると受け止めることができるでしょう。私たち一人ひとりの存在はいま、イエスさまのお身体に抱きとめられているのだ、と。私たちはいま共に、キリストの愛と復活の命に結ばれ、その内に抱かれているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

私たちはいま、《命のパン》をいただいています。天にある者も、地にある者も、私たちはいま共に、《命の水》をいただいています。私たちの魂をイエスさまに向かって開くとき、私たちの存在の底に、イエスさまの尽きぬ命のパンと水とが湧き出でてくるでしょう。

 

 

あなたという存在は決して失われることはありません。あなたの愛する人の存在は、決して失われることはありません。誰一人失われることなく、私たちすべての者が神さまの愛と命に結ばれていることが、神さまのとこしえの願いであるのだと信じています。