2023年7月23日「互いに支え合い、協力し合って」

2023723日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨシュア記2114節、ルカによる福音書813節、フィリピの信徒への手紙413

互いに支え合い、協力し合って

 

 

秋田豪雨災害から1週間

 

この度の豪雨により東北各地、特に秋田県に甚大なる被害が生じています。皆さんも大変心配していらっしゃることと思います。豪雨災害から1週間が経ち、その被害の規模の大きさも明らかになってきています。

 

秋田地区の教会の中では、秋田楢山教会が会堂・牧師館ともに床下浸水するなどの大きな被害が生じています。問安くださった常置委員の中西絵津子先生のご報告によりますと、床下に入った泥は会堂から集会室、台所まで広範囲に及んでいるとのことです。牧師館は床下に入るために穴をあけなければならず、玄関ドアも故障して鍵が閉まらない状態であるとのことです。除雪機も故障、牧師の村尾先生の車も浸水して廃車にせざるを得なくなってしまったと伺っています。

秋田楢山教会、秋田桜教会、秋田高陽教会の教会員の方々にも複数名、床上浸水あるいは床下浸水の被害があったとのことです。

 

地区と教区、教団としても現在、支援の体制を整えているところです。村尾政治先生・いづみ先生、秋田楢山教会の皆さま、この度の豪雨で被災された皆さまを覚えて、お祈りください。

いま困難の中にある方々、懸命に復旧作業をしている方々の上に神さまのお支えがありますようご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

「使徒」は男性……!?

 

聖書固有の言葉の一つとして、「使徒」という言葉があります。原語のギリシア語のもともとの意味は、「使命をもって遣わされた者」。伝統的に、イエス・キリストによって直接選ばれた(『召命を受けた』と言います)12人の弟子、および十字架の死より復活したキリストと出会った(40日間。それを通して召命を受けた)弟子たちのことを指します。多くの人が使徒と聞いて思い浮かべるのは、前者の12弟子のことであると思います。

 

イエスさまによって選ばれた12人の使徒の名前は、以下の通りです(ルカによる福音書61416節。並行箇所:マタイによる福音書1024節、マルコによる福音書31619節)。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ(タダイ)、イスカリオテのユダ。

スクリーンには、以前私が描いた12弟子のイラストを映しています。もちろん顔は想像で(!)描いています。このイラストを見ていただいても分かるように、この12人の使徒はみんな男性ですよね。

 

 イエスさまの弟子は男性だけだったかと言うと、もちろんそうではありません。イエスさまの弟子として、その福音を伝える旅に同行していたのは、この12人使徒の他に、女性も、男性も(もしかしたら子どもも)、たくさんいました。

 

 たとえば、先ほど読んでいただいたルカによる福音書813節にはこのように記されていました。《すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。/悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、/ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた》。

 

 ここでは、12弟子の他に、マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナをはじめ、多くの女性の弟子たちがイエスさまの旅に同行していたことが記されています。女性たちは自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していたとも書かれています。

 

 

 

マグダラのマリア ~第一の使徒

 

 ここで注目してみたいのは、マグダラのマリアという人物です。このマリアは、イエスさまの母マリアとはまた別の人です。マグダラのマリアはイエスさまの福音宣教の旅に同行していただけではなく、イエスさまの十字架の死と埋葬に立ち合い、そして墓穴の前で死より復活されたイエスさまと最初に出会った人物として、福音書にその名をとどめています(ヨハネによる福音書1925節、201118節など)。またそして、イエスさまが復活されたことを最初に使徒たちに知らせたのも、このマリア(たち)でした。よってマグダラのマリアは「使徒への使徒」とも呼ばれます。

 

 先ほど、使徒とは伝統的に、イエス・キリストによって直接選ばれた12人の弟子、および復活したキリストと出会った弟子たちのことを指すと言いました。この定義に基づきますと、マグダラのマリアは使徒と呼ぶにふさわしい人物であると言えるでしょう(参照:アン・グレアム・ブロック『マグダラのマリア、第一の使徒 権威を求める闘い』、吉谷かおる訳、新教出版社、2011年)。生前のイエスさまと活動を共にし、イエスさまの十字架の死と埋葬を見守り、イエスさまのご復活の最初の証言者となり、それを弟子たちに知らせたマグダラのマリアは、「第一の使徒」と呼ぶべき存在であると言えます。

事実、マリアは最初期のキリスト教会において指導的立場にあり、人々から尊敬されるリーダーの一人であったと考えられます。

 

 

 

「教会の父権制化」の歴史

 

 しかし、その後のキリスト教の歴史において、マリアは広く使徒として認知されることはありませんでした。なぜでしょうか。その要因の一つとして、マリアの性別が女性であったことが関わっていたのでしょう。

 

 生前のイエスさまの宣教の旅においては、女性も男性も、性別を問うことなく、共に支え合い、協力し合っていたことが伺われます。けれども、教会が誕生し、その組織が整えられ、確立されてゆくに従って、主要な役職は男性だけが担うようになってゆきました。監督(司教)・長老(司祭)・執事(助祭)からなる聖職位階制は男性のみによって担われ、女性はそれらの役割から排除されていったのです(参照:荒井献『原始キリスト教史』、『初期キリスト教の霊性――宣教・女性・異端』所収、岩波書店、2009年、227頁)。生前のイエスさまに倣って男性中心的な在り方から脱却してゆくどころか、むしろ男性中心的な在り方をより強化していってしまった歴史があるのですね。

 

 マグダラのマリアが使徒として認知されてこなかった背景には、このようなキリスト教の歴史――少し難しい言葉で言いますと、「教会の父権制化」の歴史――が関わっていると考えられます。最初期のキリスト教会における卓越したリーダーの一人であったマリアは、その後のキリスト教の歴史においては、「悔い改めた罪の女」という別のイメージが定着してゆくこととなります。

 

 

 

《マグダラのマリアに出会い直す》

 

いまを生きる私たちはこのようなキリスト教の歴史の負の側面――女性たちを抑圧し、排除していった歴史――も受け止め、批判的に検証してゆくことも必要であるでしょう。山口里子さんはご著書の中で、《マグダラのマリアに出会い直す》ことを提言しています(山口里子『マグダラのマリアに出会い直す』、『いのちの糧の分かち合い いま教会の原点から学ぶ』所収、新教出版社、2015年、121165頁)。マグダラのマリアは、いま私たちが出会い直すべき聖書の人物の一人であると私も受け止めています。

 

 

 

神に愛されている同じ一人の人間として

 

 使徒とは、イエス・キリストによって選ばれた12人の弟子、および復活したキリストと出会った(40日間限定)弟子たちのこと――。伝統的なこの定義は、特にルカによる福音書の影響を受けているものです。このルカによる福音書の影響を受け、教会は、使徒を12使徒をはじめとし、「男性限定」で捉えてきた側面があります。

 

 一方で、新約聖書のパウロの手紙においては、また別の使徒の定義が示されています。パウロ自身、生前のイエスさまとは面識はありませんでしたが、自分を復活のキリストから選ばれた使徒であると認識していました(ローマの信徒への手紙11節など)。また、パウロの手紙の中では、女性の弟子のユニア(同167節)も使徒の中に含まれています。最初期のキリスト教会おいては、女性にも男性にも使徒と呼ばれる人々がいたのです。

 

 メッセージの冒頭でお読みしたフィリピの信徒への手紙413節においても、エボディアとシンティケという女性の指導者の名前が登場します。《だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。/わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。/なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです》。

 

 パウロはエボディアとシンティケの名前を挙げ、《主において同じ思いを抱きなさい》と勧告をしています。もしかしたら、教会の指導的立場にあった彼女たちの間に何らかの不一致が生じていたのかもしれません。またパウロはこの二人の女性を支えてあげてほしい、と協力者たちに呼びかけます。そしてこのエボディアとシンティケは他の人々共に、福音のために戦ってくれた同志であることを語ります。

 

 私たちはこれらの記述から、最初期のキリスト教会におけるメンバーシップの様子を垣間見ることができます。一方が一方に従属するのではない、それぞれが自分の賜物を十分に発揮する、対等な関係性をここに見出すことができるのではないでしょうか。

パウロの手紙が記された当時、女性の地位は非常に低いものとされていました。生活の様々な場面において、人としての当たり前の権利が制限されていました。そのような中にあって、この聖書箇所では性別ではなく同じ一人の人間として尊重し合い、共に福音のために働く様子を見出すことができます。

女性/男性という性別ではなく、神に愛されている同じ一人の人間として、同じ思いを抱き、互いに支え合い、協力し合うことの大切さを思います。

 

 

 

互いに支え合い、協力し合って

 

 本日は使徒という言葉を手掛かりとし、マグダラのマリアについて、また最初期のキリスト教会の在り方についてお話ししました。またその後、教会が父権制化していったことについても触れました。これらのことを受け、私たちは改めて、現在の私たちの社会について、私たちの教会について考えてみることが必要であるでしょう。

 

私たちが生きる日本の社会は、依然として、ジェンダーによる差別や不平等が存在しています。ジェンダー(gender)とは、生物学的な性差(sex)に付加された、社会的・文化的な性差のことを言います。女性/男性であることに基づいてつくられた、役割の違いや意識のことですね(例として『女性らしさ、男性らしさ』、『女性は家の中の家事をすべき、男性は家の外で働くべき』など)。

 

ジェンダーの平等を指数にした「ジェンダーギャップ指数」(世界経済フォーラムが発表。男性に対する女性の割合の数値を示したもの)では、日本は世界146か国中125位と低い順位となっています(2023年)。このジェンダーギャップ指数は、「経済」「教育」「健康」「政治」の4つの分野から作成されています。私たちの住む日本は、「教育」の順位は146か国中第47位、「健康」は第59位と比較的順位が高い一方で、「経済」は146か国中第123位、「政治」は138位と、かなり順位が低くなっています。特に経済参画と政治参画の分野においてジェンダーギャップが大きいことが分かります参照:内閣府男女共同参画局websitehttps://www.gender.go.jp/international/int_syogaikoku/int_shihyo/index.html

 

ジェンダーの問題が大切な課題であることは、私たち教会も同様でありましょう。私たちは教会の組織の在り方や相互の関係性について、共に考えてゆくことが求められています。もちろん、多くの方々の賢明なる努力によって改善されてきた部分も沢山あります。同時に、より良い在り方を祈り求めてゆくことが必要な部分も様々にあることでしょう。

その際、生前のイエスさまの活動の在り方、最初期のキリスト教会の活動の在り方を改めて学ぶことは大切なヒントになることと思います。マグダラのマリアと出会い直すこと、そして、生前のイエスさまと出会い直すこと――。それは、私たちが自分自身と新たに出会い直すことともつながっているでしょう。私たち自身の内にも、いまだ様々な抑圧や偏見が、またそして、大きな痛みが存在していると思うからです。

 

 

私たちがいま目の前にある差別や不平等、内外にある様々な抑圧や排除、また自分自身の内の痛みに意識を向け、それらの問題に一つひとつ取り組んでゆくことができますように。そうして、一人ひとりが個人として尊重される、平等な社会を目指して共に歩んでゆくことができますようにと願います。

私たちが性別やセクシュアリティや属性で人を判断することなく、神に愛されているかけがえのない一人ひとりとして、賜物を活かし、互いに支え合い、協力し合ってゆくことができますように。