2023年12月3日「平和の福音を」

2023123日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書72531節、ローマの信徒への手紙111324節、イザヤ書52110

平和の福音を

 

 

 

アドベント

 

本日から、教会の暦でアドベント(待降節)に入ります。アドベントはイエス・キリストの誕生を記念するクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間です。カトリック教会では、アドベントから新しい一年がはじまるとされています。

 

 12月に入ってご自宅にアドベント・カレンダーを飾った方もいらっしゃることでしょう。私も幼い頃、家に飾られたアドベント・カレンダーを一日一日めくってゆくのが楽しみでした。ある年は、待ちきれなくて、クリスマスの数日前に、こっそり24日の絵を隙間からのぞいてしまったこともあります。アドベントは、イエスさまの誕生を待ち望む時期ですから、子どもにもその気持ちを伝えるのにアドベント・カレンダーはよいものですね。子どもの頃の私のように「待ちきれない」(!)という場合もありますが。

 

 

昨日は、教会の有志の皆さんがリースづくりや、ツリーの飾りつけをしてくださいました。教会の外のモミの木がクリスマスツリーになっているのに気づかれた方もいらっしゃることと思います。玄関に飾られた大きなリースや会堂内のリースも、有志の皆さんが手作りしてくださったものです。

 

こちらに飾っているリースはアドベント・クランツと言います。クランツとはドイツ語で「輪」を意味する言葉です。この輪は、イエスさまの頭に被せられる冠を表しているという説があります。イエス・キリストがまことの王であることの象徴としての冠です。また、冬の間も葉を落とさない常緑樹で編まれた「輪」であることから、イエス・キリストが永遠の命であることの象徴であるとも言われます。この輪のかたちは、そのどちらの意味も含んでいる、ということができるでしょう。

 

 アドベント・クランツの特徴は、ろうそくが立てられている点です。毎週1本ずつ、このろうそくに火をともしてゆきます。クリスマスには、4本のろうそくすべてに火がともされることになります。このろうそくの光は、イエス・キリストが「まことの光」であることを表しています。新約聖書では、神の御子イエス・キリストはまことの光と呼ばれます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)。すべての人を照らす、まことの光――。私たちはアドベントの期間、この光を待ち望む想いを新たにします。

 

 

 

《目を覚ましていなさい》

 

 アドベントの第1週によく読まれる聖書の言葉があります。イエス・キリストの《目を覚ましていなさい》という言葉です。《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。/気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。…あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい(マルコによる福音書133237節)

 

 ここでの《目を覚ましていなさい》という言葉は、居眠りせずにずっと起きていなさい、という意味ではありません。ここで言われているのは、「心の目を覚ましていなさい」という意味です。クリスマスが近づいている今、心の目を覚まして、イエス・キリストをお迎えする準備をしなければならない。アドベントは「到来」という意味の言葉です。イエス・キリストの到来を待ち望むアドベントにおいて、私たちはまどろみに陥ることなく、心の目を覚ましていることが求められています。

 

 12月は何かと忙しい時期です。慌ただしさの中でつい自分のことで精いっぱいになってしまいがちな私たちです。そのような中、改めて自分自身の在り方を見つめ直し、御子の到来に心の目を向けることができるように、神さまの助けを求めたいと思います。

 

 

 

御子の到来と、他者の痛みに対して目を覚ましていること

 

  慌ただしく余裕のない生活の中で、私たちはどのような部分がまどろみに陥りやすいものでしょうか。それは、「他者の痛みに想いを馳せようとする心」なのではないかと思います。忙しい日々の中で、私たちはついこの心がまどろんでしまうことが多いのではないでしょうか。

 

いま、《目を覚ましていなさい》というイエス・キリストの言葉をご紹介しました。これは、イエスさまをお迎えすることができるようにいつでも準備を整えておくように、という意味の言葉ですが、同時に、隣人の手助けをするために、いつでも準備を整えておくように、というメッセージの言葉としても私は受け止めています。神と隣人に対して、目を覚ましていること、です。

隣人を大切にするために不可欠な姿勢、それは、その人の痛みに想いを馳せようとする姿勢ではないでしょうか。他者の痛みを感じ取り、その叫びを聞きとる中で、私たちはその人のために動き出す一歩が与えられてゆきます。

《目を覚ましていなさい》という言葉を、本日は、「御子イエス・キリストの到来に対して目を覚ましていなさい」という呼びかけの言葉として、またそして「他者の痛みに対して目を覚ましていなさい」という呼びかけの言葉としてご一緒に受け止めたいと思います。

 

 たとえば、いじめやハラスメントの問題も、他者の痛みに対して心がまどろんでしまっていることが根本の要因として関係しているように思います。余裕のない中で、あるいは自分は絶対に「正しい」と思い込む中で、むしろ私たちは意識をしないと、他者の痛みに想いを馳せようとする心がまどろんでしまうのです。

心がまどろみに陥っているとき、私たちは目の前にいる人々が自分と同じ一人の人間であることを忘れてしまっています。相手も自分と同じように人格をもち、自分と同じように日々悩み喜びながら懸命に生きていることを忘れ、相手に対して、時に非人間的な振る舞いをしてしまうのです。

 

 そのような中で、私たちは絶えず、《目を覚ましていなさい》とのイエスさまの呼びかけに立ち還ることが求められているのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

平和の福音を

 

 イエス・キリストは、たとえ私たちがまどろみに陥っても、決してまどろみには陥らない方です。私たちの痛みに対して絶えず目を覚まし、私たちの叫びを必ず聴いてくださる方です。このイエスさまのお姿に学び続ける中で、頑なだったこの私の心は再び柔らかにされ、まどろんでいた心は再び目を覚まし始めます。

 

 本日の聖書個所に、次の言葉がありました。イザヤ書5278節《いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。/その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを》。

 キリスト教会は伝統的に、この旧約聖書(ヘブライ語聖書)の預言の言葉を、イエス・キリストの到来を預言する言葉として受け止めてきました。この世界に平和をもたらす救い主が到来する――その平和の福音を伝えて回る使者たちの足はいかに美しいことか、とここでは語られています。

 

 平和とは、一人ひとりが大切にされることです。一人ひとりの存在とその尊厳が大切にされている状態が、平和です。イエスさまはその平和を実現するために、まことの光として、この世界に来てくださいました。そしていま、私たちのところへ来てくださろうとしています。イエスさまが私たち一人ひとりを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にすること。これこそが、イエスさまが私たちに願って下さっていることです。

 私たち一人ひとりに、平和の福音を告げ知らせ、平和を実現する使命が神さまから与えられています。

 

 

 

いま共に心の目を覚まし

 

 私たちの近くに遠くに、平和ではない現実があります。一人ひとりの存在とその尊厳が大切にされていない現実があります。

 ロシアとウクライナの戦争は、いまだ停戦に至ることなく続いています。束の間の休戦状態にあったハマスとイスラエルの戦争も再開され、ガザ地区の人々は再び空爆の恐怖、生命の危機にさらされています。イスラエル軍によるパレスチナの人々への虐殺が行われています。一刻も早く停戦へと至り、これ以上、神の目にかけがえのない一人ひとりの生命が失われることのないよう、切に祈ります。

 かつて預言者イザヤが語った平和の福音は、一体どこへ行ってしまったのでしょうか。私たちの生きる世界はいま、まどろみと深い暗闇とに覆われているかのようです。

 

 私たちの身近なところにも、平和が見失われている現実があります。一人ひとりの存在とその尊厳が大切にされていない現状があります。先ほど述べた、いじめやハラスメントの問題もその一つです。

 

 イエス・キリストはいまこの時、私たちに呼びかけておられます。《目を覚ましていなさい》――。

 

 いま共に心の目を覚まし、神さまのため、隣人のため、自分にできることを行ってゆきたいと願います。