2023年3月5日「私たちを自由にする真理の霊」

202335日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:創世記61122節、ヨハネの手紙一416節、ルカによる福音書111426

私たちを自由にする真理の霊

 

 

 

聖書における《悪霊》 ~私たちから主体性を奪おうとする力

 

 本日の聖書箇所ルカによる福音書111426節には、《悪霊》《汚れた霊》と呼ばれる存在が登場します。たとえば冒頭の1114節にはこのように書かれていました。《イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した》。

イエス・キリストはこれらの《悪霊》と対峙し、人々の内から追い出すということをご自身の大切な働きの一つとしておられました。病気の人々を癒すことの他に、悪霊を人々の中から追い出すこと(悪霊追放)をご自身の大切な働きの一つとしておられたのです。

 

《汚れた霊》や《悪霊》がどのような存在であったかは、いまを生きる私たちにははっきりとは分かりません。様々な解釈が可能であることでしょう。現代の私たちの視点からすると、何らかの精神の病いに起因する場合も中にはあったことでしょう。一方で、福音書に記される《悪霊》の働きのすべてが精神的な病いに起因するものだと言えるかと言うと、必ずしもそうではないでしょう。中には、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しい事例もあります。

 

様々な解釈ができる《悪霊》や《汚れた霊》ですが、これらの「霊」の働きについて、共通していることがあります。それは、「私たちから主体性を奪おうとする力」であるという点です。私たちの内から主体性を奪い、自由な意志や判断を奪い、言葉を奪い、そして尊厳を奪おうとする何らかの否定的な力。福音書に登場する悪霊にとりつかれた人々は、その否定的な力の支配とコントロールを受け、苦しめられている人々だと言えます。

 

聖書における《悪霊》とは、私たちから主体性を奪う何らかの否定的な力である。このように《悪霊》の存在を受け止め直してみます時、それは必ずしも個人の心の問題だけに起因するものではないこととなります。個人の問題にとどまらず、周囲の環境がそれを作り出してしまうこともあるでしょう。ある人が誰かを支配し、その主体性を奪おうとしているのだとしたら、そこには何らかの否定的な力が働いていることになります。

 

 

 

イエス・キリストの「悪霊追放」 ~私たちに主体性と尊厳を取り戻すために

 

主体性が奪われ、心と体が「自分ではない何か」に支配され、まるで自分が自分ではないような感覚にさせられてしまっている状態というのは、私たちによって非常に苦しいものです。主体性が失われている状態は、言いかえれば、自分らしさが失われている状態でもあります。自分の想いや考えが尊重されない状態。有無を言わさず、自分ではない誰かの想いを強制されている状態。これらは私たちにとって苦しいことですが、私たちは日々の生活の様々な場面で、これに通ずる経験をすることがあるかもしれません。そのような時、私たちは知らずしらず、何らかの否定的な「霊」の支配の影響を受けている、ということもできるでしょう。イエスさまはこの私たちの現実と向かい合い、この苦しみから私たちを解放しようとしてくださいました。それが、福音書に記されているイエスさまによる「悪霊追放」の出来事であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

先ほど、イエスさまは病いの癒しと共に、悪霊の追放をご自身の大切な働きの一つとしておられたことを述べました。それは、言いかえると、イエスさまが私たちの内に主体性を回復し、個人の尊厳を取り戻すために働いてくださっていたということでありましょう。

 

聖書における《悪霊》の働きと、イエス・キリストのお働きというのは対照的なものです。聖書における《悪霊》が私たちから主体性を奪うように働く何らかの否定的な力であるとすると、イエスさまの内からあふれ出ているのは私たちに主体性を取り戻すように働く積極的・肯定的な神の力です。どちらの働きも私たちの目には見えないものですが、その内実はまったく対照的なものです。

 

本日の聖書箇所では、イエスさまに対して、群衆の中のある人が、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と批判をする場面が記されていました(ルカによる福音書1115節)。イエスは悪霊の親玉にとりつかれており、だから人々にとりついている下っ端の悪霊を追い出すことができるのだというのですね。もちろん、それは事実とは異なる、誹謗中傷の言葉です。悪霊の働きと、イエス・キリストの働きは、根本的に異なっているからです。イエスさまご自身も、《あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか18節)と反論しておられます。イエスさまを通して働いているのは、他ならぬ神さまの霊=聖霊でした。イエスさまはおっしゃいます、《わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ20節)。イエスさまを通して働いているのは神の力であり、そのイエスさまを通して神の国が人々のもとに到来していることが力強く宣言されています。

 

 

 

ハラスメントの問題

 

本日は、聖書における《悪霊》を「私たちから主体性を奪う力」としてご一緒に受け止めました。この力は、日々の生活において、私たちの身近なところでも生じ得るものです。私たちが誰かからこのような否定的な力を受けることもあるでしょうし、私たち自身が誰かに否定的な力を及ぼしてしまうこともあるでしょう。むしろ私たちは意識して気をつけていないと、容易にこの否定的な力の影響を受けてしまうと言えるのではないでしょうか。

 

 近年、私たちが向かい合うべき大切な課題の一つとして、ハラスメントの問題が取り上げられるようになりました。セクシュアル・ハラスメント、モラル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、アカデミック・ハラスメントをはじめ、様々なハラスメントがあります。ハラスメントは「嫌がらせ、いじめ」という意味ですが、より正確に表現すると、「精神的な暴力(目には見えない暴力)」を表す言葉です。殴る蹴るなどの身体的な暴力だけが暴力ではなく、精神的な暴力もある、そのことへの認識が近年私たちの社会において高まってきています。

 

 

 

モラル・ハラスメントについて ~精神的な暴力(目には見えない暴力)

 

 ハラスメントへの理解を深めるという意味では、特にモラル・ハラスメント(モラハラ)への理解を深めることが助けになります。ここでの「モラル」とは、フランス語で「精神的な」という意味です。「倫理的、道徳的な」の意味も含まれますが、ここでの第一義は「精神的な」です。よって、モラル・ハラスメントは「精神的な嫌がらせ(暴力・虐待)」と訳すのがふさわしいでしょう。

ハラスメントとは精神的な暴力(目には見えない暴力)を表す言葉だと先ほど申しました。モラル・ハラスメントはまさに精神的な暴力(目には見えない暴力)を指すものであり、その意味で、様々なハラスメント全般を統括する言葉だとも言えます。

 

モラル・ハラスメントという言葉を初めて提唱したのは、フランスの精神科医のマリー=フランス・イルゴイエンヌという方です。その最初の著書『モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない』(原著1998年、日本語訳は1999年。高野優訳、紀伊國屋書店)は世界的なベストセラーとなり、以来、精神的な暴力(目には見えない暴力)への理解が急速に広まってゆくこととなりました。

 

モラル・ハラスメントという言葉がつくられたことには、私たちの社会において、極めて重要な意義があったと言えます。精神的な暴力自体は、はるか昔、人間の歴史が始まったときから存在していたでしょう。家庭で、職場で、学校で、あらゆる組織・団体で……無数の人々がその暴力・虐待に傷ついてきたことでしょう。しかし、モラル・ハラスメントという言葉が誕生するまで、その目には見えない暴力に対して、適切な名前が存在していなかったのです。

 

「目には見えない」という表現は、「身体的な暴力ではなく、精神的な暴力である」という意味の他に、「巧妙に隠されている」という意味も併せ持っていると言えます。人々の目から巧妙に覆い隠されているのが、モラル・ハラスメントであるからです。周囲の人々がその深刻な被害に気付かないだけではなく、被害に遭っている人自身も「自分が暴力・虐待を受けている」と認識しづらいのがモラル・ハラスメントの特質です。

その認識されづらい暴力・虐待に対して「モラル・ハラスメント」という名前がつけられ、その内実や構造が言語化されたことにより、多くの人々が「自分は被害者である」ことに初めて気づくことができるようになりました。自分が置かれている状況を客観的に認識し、精神的な暴力を日常的に受けている状況から脱出する糸口を見出すことができるようになったのです。これは極めて重要な変化であったと思います。

 

 

 

巧妙に利用される「罪悪感」

 

モラル・ハラスメントについて、ある専門家の方は《自分の心の問題を他者に流し込む手段として行われる攻撃》と説明しています(谷本惠美『モラハラ環境を生きた人たち』、而立書房、2016年、12頁)。とても分かりやすい説明だと思います。

実際は自分の心の問題を相手に押し付けているだけなのに、モラル・ハラスメントの行為者は「自分は正しい」「あなたが悪い」と相手を攻撃してゆきます。たとえば、何か相手に小さな失敗や弱みを見つけると、それに付けこみ、ことあるごとに攻撃し、被害者に「自分が悪い」と思い込ませてゆくのです。そうして罪悪感を抱かせ、自分では身動きが取れないようにさせ、次第に被害者を自分の支配下に置いてゆく。ある人は、ハラスメントの本質は「支配とコントロール」にあるとおっしゃっていましたが、その通りであると思います。

 

その際、巧妙に利用されるのが、罪悪感です。罪悪感は私たちの内から自信を失わせ、自尊心を低下させ、主体性を奪い、その状況から身動きができなくさせてゆきます。また周囲からも孤立させてゆきます。先ほど、被害に遭っている人自身が「自分がハラスメントを受けている」と認識しづらいのがモラル・ハラスメントの特質だと述べましたが、それにはこの罪悪感――「悪いのは私」という意識――が大きく関わっています。

 

マリー=フランス・イルゴイエンヌさんは、モラル・ハラスメントを《精神的な殺人》と呼んでいます。場合によっては、モラル・ハラスメントはそれほど深刻な暴力となり得ることを心に刻みたいと思います。《被害者は肉体的には生きているが、精神的には死んでいる。いわばゾンビーになってしまったようなものだ。また、この状態になると、被害者の心のなかには加害者が住みついていて、被害者が何かをしようとすると、姿を現す。別の言葉で言えば、被害者は加害者に取り憑かれてしまうのである。

読者からの手紙/≪あれからもう何年もたつのに、私が何かを始めようとすると、心のなかで小さな声がささやくのです。「おまえは駄目な人間だ。おまえなんかには何にもできっこない。おまえは失敗するだろう」と……≫》(マリー=フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』、高野優訳、紀伊国屋書店、2003年、236237頁。『モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない』の続編)

 

もしも「自分がハラスメント被害を受けているかもしれない」との思いがほんの少しでも頭をかすめたら、すぐに信頼できる人に相談する、あるいは相談窓口に連絡をすることが大切です。また、ハラスメント被害を確信した場合、自分にハラスメントを行っている相手と「距離を取る」「関係を断つ」決断をすることも重要です。

被害を受けているあなたは何も悪くありません。悪いのは、ハラスメント行為を行っている人です。罪悪感(『悪いのは私』『私が悪い』という意識)から脱却してゆくこと、そうして自らの内に自尊心を取り戻してゆくことが、ハラスメントから脱出する上でとても重要な要素であると思います。

 

 

 

私たちを自由にする真理の霊

 

聖書における《悪霊》の働きとの関連で、ハラスメントについてもお話ししました。ハラスメントを予防し、その被害を減少させてゆくことは、私たち社会全体の重要な課題です。メッセージの前半で、《悪霊》を、私たちから主体性を奪う、否定的な力として受け止めました。ハラスメント問題も、その悪しき力が私たちのコミュニケーションにおいて働くときに生じるものだと言うことができます。

 

 イエスさまはおっしゃいました、《わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ20節)。聖霊の力によって、イエスさまは苦しむ人々の内から悪しき力を追い出して下さいました。そうして人々の内に主体性を回復し、言葉を取り戻し、神さまからの尊厳の光を取り戻してくださいました。イエスさまの内からわきでる真理の霊は、いまも私たち一人ひとりのために働いて下さっています。

 

イエスさまはこうもおっしゃいました、《真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書832節)。本当に大切な言葉は、私たちを縛りつけるものではなく、私たちを自由にしてくれるものです。私たちが自分らしく、喜びをもって生きてゆくことができるよう励まし、導いてくれるものです。

 

 

イエスさまが与えてくださる真理の霊は、いまも私たちの間におられ、共に働いて下さっています。私たち一人ひとりが罪悪感から解き放たれ、自由に、尊厳をもって生きてゆくことができるように――。私たちがハラスメントをはじめとする悪しき力から解放され、喜びをもって生きてゆくことが神さまの願いであると信じています。