2023年5月7日「互いに愛し合いなさい」
2023年5月7日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:申命記7章6-11節、ガラテヤの信徒への手紙3章23節-4章7節、ヨハネによる福音書15章12-17節
石川県能登地方で強い地震
一昨日の午後2時半過ぎ、石川県能登地方を震源とする強い地震がありました。同県珠洲市では震度6強を観測しました。同日の夜には震度5強の揺れを観測する地震もありました。いまも多くの方が不安の中を過ごしておられることと思います。
どうぞお一人おひとりの安全が守られますように、被害が最小限に食い止められるように祈ります。
聖書の中から最も重要な言葉を選ぶとしたら……?
聖書の中から、最も重要な言葉を一つ選ぶとしたら、皆さんはどの言葉を選ぶでしょうか。なかなか難しい質問ですよね。重要な言葉、自分にとって大切な聖書の言葉はたくさんあるからです。
先月、Eテレの「100分de名著」という番組で、「新約聖書 福音書」が取り上げられていました(全4回)。ご覧になった方もいらっしゃるかと思います。ゲストは批評家・随筆家の若松英輔さん。最終回のエンディングで、若松さんはイエス・キリストの言葉の中でも最も大切にしたいと思っている言葉として、本日の聖書箇所ヨハネによる福音書15章12節以下を挙げていらっしゃいました。15章12節《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》――。「福音書の言葉の中で最重要の言葉を挙げてくださいと言われたら、僕は迷わずこれを挙げたいと思います」、と。
《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい》
まさに、このイエスさまの言葉は福音書の中で最も重要な言葉の一つです(ヨハネによる福音書13章34-35節も参照)。《私はイエスの教えは、この一言に尽きるのではないかとすら感じています》(若松英輔『NHK100分de名著 新約聖書 福音書 言葉の奥にあるコトバ』、NHK出版、2023年、112頁)と若松さんは述べておられました。私自身にとっても、いつも心の中で響いているイエスさまの言葉はこの言葉であると感じています。
若松さんが番組の中で強調しておられたのは、イエスさまはここで「あなたがたは神を愛せ」とはおっしゃっていないこと。「あなたがたが互いに愛し合いなさい。それがわたしの掟である」。「わたしがあなたがたを愛したように。それがただ一つのわたしの掟である」。
またこの掟に関連して、若松さんは、「神はどこにいるのか」という問いについて、「神は、人と人との間にいる」ともおっしゃっているのが心に残りました。私たちの間に、神さまがおられる、というのですね。
私たちが互いを大切にすることが、神を大切にすることにもつながっているのだと受け止めることもできるでしょう。
私たちへの遺言として
改めて、ヨハネによる福音書15章12-15節をお読みしたいと思います。《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。/友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。/わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。/もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである》。
この言葉は、イエスさまが十字架におかかりになる直前、最後の晩餐の席において、弟子たちに向けて語られた言葉の一つです。イエスさまの告別説教の言葉、まさに私たちへの遺言として受け止めることができます。
イエスさまはこの後、苦しみを受け、十字架刑によって非業の死を遂げられます。福音書は、その十字架の死は、私たちのためであったと受け止めています。イエスさまは私たちのために、ご自身の命をささげてくださった。それは、それほどまでに私たちを愛して下さっていたからです。私たち一人ひとりの存在を極みまで愛するゆえ、イエスさまは私たちのためにご自分の命を捨てて下さったのだと福音書は証しします。《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(13節)。
《わたしがあなたがたを愛したように》の冒頭の言葉は、このイエスさまの十字架の死を指し示しています。イエスさまのその愛は、私たちのためにご自身の命を捨ててくださったほどの愛。《互いに愛し合いなさい》という掟は、このイエスさまの十字架の出来事を踏まえたものなのです。イエスさまはその十字架を通して、私たちに神さまの愛を現してくださいました。私たちの全身を、神さまの愛で包み込んで下さいました。
《わたしはあなたがたを友と呼ぶ》
ここでもう一つ心に刻みたいことは、イエスさまが私たちのことを「友」と呼んで下さっていることです。《わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。/もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである》(14-15節)。
イエスさまが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと。その愛の掟を実践するとき、イエスさまは私たちを《わたしの友》と呼んでくださる。もはや主人と僕(しもべ)の関係ではなく、まことの友と呼んでくださる。イエスさまの愛を全身に受けた私たちは、互いに愛し合うことによって、イエスさまの友となるよう招かれています。
聖書が語る神の愛 ~相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること
《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》(12節)。この掟は、「イエスさまが私たちを大切にしてくださったように、互いを大切にし合うこと」「イエスさまが私たちを重んじてくださったように、私たちも互いを重んじあうこと」として受け止めることができるでしょう。
聖書における愛は、ギリシア語でアガペーと言います。聖書がアガペーという言葉を使うとき、それは第一の意味として、「神の愛」を指します。私たちから生じる愛というより、神から生じている愛を指します。
では、そのアガペーなる愛とは、どのようなものか。私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとするもの」です。
聖書は、他ならぬ神さまが、私たちの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださっていることを語っています。私たちを愛するゆえ、独り子であるイエス・キリストを私たちに与えてくださった。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネによる福音書3章16節)。それは言い換えますと、神はそれほどまでに私たちを重んじてくださっているということです。
そして、イエスさまも、私たちを愛するゆえ、その限りある命を私たちに分け与えてくださいました。《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(11章11節)。私たちの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださるゆえに。イエスさまは私たちを愛するゆえ、極みまで私たちの存在を重んじてくださるゆえ、その命までも捨ててくださった方です。
自分自身を大切にし、隣人を大切にし、神さまを大切にしてゆくこと
と同時に、ここでご一緒に確認しておきたいことは、アガペーなる愛を完全なかたちで実現することができる方は、ただイエスさまお一人のみであるということです。
イエスさまは、「だからあなたも誰かのために生命を捨てろ」と命じているのではありません。「あなたという存在が決して失われることがないために、わたしが、生命をささげる」とおっしゃってくださっているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。それは、十字架上での、「ただ一度きり」の犠牲です。私たちの存在が失われることがないために、神の御子なるイエスさまが十字架上で、ただ一度きりの犠牲をささげてくださいました。
ですので、私たちはもはや、自分自身を犠牲にする必要はありません。その生命と尊厳を犠牲にする必要はありません。私たちがなすべきことは、イエスさまのこの大いなる愛と恵みを、ただ受け取ることだけです。そうして、その愛を受けて、自分自身を大切にし、隣り人を大切にしてゆくことです。
『100分de名著』のテキストの中で、若松英輔さんは自分自身を愛することの重要性も述べていらっしゃいました。《私たちは他者を愛するだけでは十分ではありません。「互いに」という言葉には、他者だけでなく自分自身も愛する、ということが含意されているのだと思います(同、112頁)。「互いに愛し合う」という言葉には、自分自身を愛することも含まれているというのですね。私たちが自分自身を大切にし、隣人を大切にし、そのことを通して神さまを大切にしてゆくこと、それが、イエスさまが私たちに願って下さっているあり方であるのだと信じています。
《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である》。
イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にし合うことができますように、その道を共に、一歩一歩歩んでゆくことができますように、神さまにお祈りをおささげいたしましょう。