2023年6月18日「イエス・キリストの名によって」
2023年6月18日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:申命記8章11-20節、ルカによる福音書8章40-56節、使徒言行録4章5-12節
聖霊降臨節
私たちは現在、教会の暦で聖霊降臨節の中を歩んでいます。聖霊降臨とは、イエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちのもとに聖霊が降った出来事のことを言います。聖霊とは、「神の霊」ということです。聖霊降臨節は、聖霊がいま生きて働いていてくださることを信じ、その導きを祈り求めつつ歩む時期です。
聖書は、目には見えない聖霊を、様々なイメージで表しています。たとえば、「鳩」。福音書には、イエス・キリストが洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように降ってきたという記述があります(マタイによる福音書3章16節)。また、聖書において聖霊は「風」や「息」、あるいは「炎」のイメージで表されることもあります。
先ほど述べましたように、聖霊とは、神さまの霊という意味です。日本に住んでいる人で間違えやすいのは、「精霊」という言葉で考えてしまうことですね。精霊は草木に宿る霊や、亡くなった人の魂を表わす言葉です。対して、教会で礼拝しているのは、神さまの霊を意味する「聖霊」です。「せい」の字の表記が違いますね。
キリスト教は伝統的にこの聖霊を、天の神、御子イエス・キリストと共に、信じる対象として大切にし続けてきました。目には見えないけれども、私たちと共にいて、働いてくださっているのが聖霊なる神さまです。
聖霊の力で満たされて
メッセージの冒頭で、ご一緒に新約聖書の使徒言行録4章をお読みしました。使徒言行録は、イエス・キリストが復活して天に昇られた後、聖霊が降った弟子たち(使徒たち)の言行(言葉と振る舞い)を記した書です。主人公は弟子たちですが、弟子たちを力づけ、導くのは聖霊です。その意味で、使徒言行録の真の主人公は、使徒たちと共に働いてくださる聖霊なる神さまだと言えるでしょう。
使徒言行録を読んでいて印象に残るのは、人々の前で、臆することなくキリストの福音について語る弟子たちの姿です。たとえ自分たちを敵視している人々の前であっても、使徒たちは勇気をもって、イエス・キリストその方について語りました。本日の聖書箇所でもそのような場面が描かれていましたね(4章5-12節)。政治的・宗教的な権力者たちに囲まれて尋問される中、聖霊に満たされたペトロとヨハネは、イエスこそがキリスト(救い主)であることを力強く証ししました。通常なら、その圧力の中、恐ろしくなって何も言えなくなってしまうところを、ペトロたちは語るべきことを語りました。
使徒言行録が語るのは、弟子たちが語るべきことを語る力が与えられたのは、聖霊のお働きによるものだということです。聖霊の力に満たされた一同は、臆することなく神の言葉を語るよう導かれてゆきました。
聖霊が降る以前の弟子たちは、そうではありませんでした。イエスさまが権力者たちによって逮捕された際、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。ペトロはイエスさまを「知らない」と否定してしまいました。イエスさまが十字架刑によって殺されてしまった直後、弟子たちは恐れに囚われ、言葉を発することもなく家の中に閉じこもっていました。その彼らが、聖霊の力で満たされることにより、変えられていったのです。
《大胆に神の言葉を》
本日の聖書箇所の少し後には、聖霊に満たされた一同が《大胆に神の言葉を》語り始めたとの一文が記されています(4章31節)。《祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした》。
《大胆に》と訳されている言葉は、「率直に」とも訳すことができる言葉です。この語はもともとは、《あらゆることを言える自由》を表す語であるそうです(『ギリシア語新約聖書釈義辞典Ⅲ』、教文館、1995年)。
自分が感じていること、思っていること、心の中にある事柄を何でも言える自由。とりわけ、自分が心から大切だと思っている事柄を、はっきりと言葉にして伝えることができる自由。このような自由は、私たちにとってとても大切なものですね。
私たちは日々の生活の中で、様々な場面において、自由に物が言えない・言いづらい瞬間に出会うのではないでしょうか。自分が思っていることを自由に口にできないことは、私たちにとって非常に苦しいことです。日本語特有の表現として、「場の空気」という言葉もありますね。私たちは知らず知らず、目には見えないその場の空気に大きな影響を受けています。
しかし、本日の聖書箇所において、ペトロたちは、物言えぬ、重苦しいその場の空気を打ち破って、《大胆に》、語るべきことを語りました。聖霊の力によって、自由に、率直に、キリストの福音を語るよう導かれてゆきました。
これらのことから、聖霊のお働きの一つに、私たちの内から怖れを取り除き、自由に物が言えるようにしてくださることがあると言えるのではないでしょうか。私たちが主体性を取り戻し、自由と尊厳を取り戻すために働いてくださるのが聖霊なる神さまであるのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
イエス・キリストの名によって
本日の聖書箇所において、ペトロとヨハネが語るべきこととして述べたのは、どのような内容のことであったのでしょうか。
本日の聖書箇所の直前の場面では、ペトロとヨハネがエルサレム神殿の門において、足の不自由な男性を癒したことが記されています(3章1-10節)。驚いて集まって来た人々に対して、ペトロとヨハネはイエス・キリストの十字架の死と復活について語りました(同11-26節)。何ごとかと近づいてきた神殿の祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々は、その状況にいらだち、二人を捕らえ、牢に入れました(4章1-4節)。次の日、議会が招集されます。当時の政治的・宗教的な権力者たち――議員、長老、律法学者、そして大祭司一族――が一同に会し、ペトロとヨハネを尋問しました。《お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか》(7節)。
そのとき、ペトロに聖霊が降ります。聖霊に満たされたペトロが語るべきこととして語ったのは、次のことでした。《民の議員、また長老の方々、/今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、/あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。/この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。/ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです》(8-12節)。
このペトロのメッセージにおいては、まず、足の不自由な男性を癒したのは「イエス・キリストの名によるものである」ことが語られます。《お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか》という問いに対して、はっきりと、キリストの名によってそうしているのだと答えているのですね。足の不自由な男性を立ち上がらせたのは、イエス・キリストの復活の命の力であったのだとペトロは語ります。その復活の命の力の証人として、癒された男性はペトロとヨハネの傍らに立っていました(14節)。
十字架の死の事実と、復活の事実の証言
続けてペトロは、そのイエス・キリストとは、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレのイエスである」ことをはっきりと証言します。ギクッとするのは、「あなたがたが十字架につけて殺し」という言葉ではないでしょうか。
福音書の受難物語は、イエス・キリストは当時の政治的・宗教的な指導者たち(最高法院)の策略によって逮捕されたことを語っています(ルカによる福音書22章66-71節)。無実であるにも関わらず、捕らえられ、裁判にかけられたのです(同22章66-71節)。そうしてローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに引き渡され、死刑を宣告されました(同23章1-5節)。罪状は、「ユダヤ人の王を自称し、民衆を扇動しようとした罪」、言い換えれば、ローマ帝国への反逆罪でした。イエス・キリストが十字架刑で処刑されたのは紀元30年頃と考えられています。ナザレのイエスが、権力者の策略によって十字架の死に追いやられたのは、紛れもない事実であるのです。ペトロはその死の真相をはっきり証言しています。
そしてそのように証言することは、当時の政治的・宗教的権力者たちの罪責を率直に指摘することを意味します。イエス・キリストを十字架の死に追いやったのは、あなたがたなのだ。キリストをはりつけにしたのは、あなたがたなのだとペトロは迫っているのです。
そのイエスを、神は、死者の中から復活させられた。三日目に、墓の中から起き上がらせた。ペトロは併せて、イエス・キリストの復活をはっきりと証言しています。それは確かな事実であり、ペトロたちはその証言者として、そこに立っています。
十字架の死の事実と、復活の事実の証言。この二つの証言は、聴衆に激しい反応を引き起こすものであったでしょう。しかし臆することなく大胆に、率直に、ペトロはこの二つのことを語りました。それがそのとき、語るべきことであったからです。
《隅の親石となった石》
そしてペトロは、このイエス・キリストこそ旧約聖書(ヘブライ語聖書)において預言されていた《隅の親石となった石》であることを語ります。11節《あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石》。私たちが救われるべき名はこのイエス・キリストの名のほか与えられていないことを語ります。
11節の言葉は、旧約聖書の詩編(118編22節)からの引用です。必要のないものとして捨てられた石が、新しく建てられる家の礎(親石)となった――。教会では伝統的にこの《隅の親石》を、十字架刑によって殺され、そしてよみがえられたイエス・キリストを指し示していると受け止めてきました。
権力者たちの策略によって殺されてしまったナザレのイエス。社会の「捨て石」のようにされてしまったナザレのイエス。しかし、このイエス・キリストが、私たちの関係性を新しく構築する「礎(親石)」としてよみがえることが予告されています。すなわち、十字架の死より復活されることが語られています。
先ほど述べましたように、イエスさまが権力者たちによって逮捕されてしまった際、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げるという過ちを犯しました。ペトロもイエスさまを「知らない」と否定する過ちを犯しました。イエス・キリストを十字架の死に追いやり、「捨て石」にした「あなたがた」の中には、他ならぬ、「自分たち」も含まれている。ペトロたちの内には、その強烈な罪の自覚があったでしょう。ナザレのイエスの十字架の死の真相を明らかにすることは、自分たちが犯した過ちと向き合い、それを明らかにしてゆくことでもあったのではないでしょうか。
聖書が語るのは、私たちが過ちを認めることは、「終わり」ではないということです。むしろ、それは「はじまり」であり、そこから、新しい時が始まってゆく。イエス・キリストの愛と平和を土台とする、新しい在り方のはじまりです。
よみがえられたイエスさまとの出会いを通して、ペトロたちが知らされたこと、それは、イエスさまがはじめから、彼らをゆるしてくださっていたことでした。すべてをゆるし、すべてを受け止め、十字架におかかりになってくださった。その大いなる愛を知らされたペトロたちは、初めて、自分たちの過ちを真に自覚することができるようになったのではないでしょうか。十字架の死の真相を明らかにし、自分たちの過ちを明らかにすることは、何よりも、イエスさまのこの愛を明らかにすることであったのです。
このイエスさまの愛と平和を土台として、私たちは、神さまと隣人との関係を新しく創造し直してゆくことができます。その「礎(親石)」として、イエスさまは十字架の死よりよみがえってくださいました。本日の聖書箇所において、使徒ペトロはそのことを力強く証言しています。
ナザレの人イエス・キリストの十字架の死と復活。私たちキリスト教会はこの事実を礎として、そこに教会を建て、信仰のともし火をともし続け、今日に至っています。
語るべき言葉を語ることの招き
本日は、使徒言行録を通して、聖霊が私たちに語るべきことを語る力を与えて下さることをご一緒に思い起こしました。また、本日の聖書箇所を通して、使徒ペトロとヨハネが語るべきこととして語った証言の内容を心に留めました。使徒たちが語ったメッセージは、現在も私たち教会の根幹であり続けています。
いまを生きる私たちが語るべきこととは何でしょうか。使徒たちの時代から受け継いできた、変わることのない、語るべきこととは何でしょうか。また、いまの時代を生きる私たちが、新しく語るべきこととは何でしょうか。勇気と誠実さをもって指摘すべきこと、イエス・キリストの名によってはっきりと証言すべきこととは、何でしょうか。
物言えぬ重苦しい空気が、様々な場面において私たちを支配しています。そのような中、私たちは、聖霊なる神さまの力を得て、大胆に、自由に、率直に、語るべき言葉を語るよう招かれています。私たちが語るべき言葉を発してゆくことができますように、いま共に、聖霊の導きを祈り求めたいと思います。