2023年7月9日「あなたに言う。起きなさい」

202379日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:エレミヤ書38113節、ルカによる福音書71117節、使徒言行録20712

あなたに言う。起きなさい

 

 

九州北部豪雨から6年、西日本豪雨から5

 

 先週75日、九州北部豪雨2017年)から6年を迎えました。また76日、西日本豪雨2018年)から5年を迎えました。被災された方々、いまも困難や悲しみの中にいる方々を覚え、祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

20207月にも、熊本を中心に、豪雨による甚大なる被害が各地で発生しました(熊本豪雨)。翌20217月には静岡県、神奈川県の各地で大雨による被害が発生、熱海市の伊豆山地区では大規模な土石流が発生しました。

 

 この10年ほど、毎年のように7月初旬から8月にかけて記録的な豪雨が発生しています。今年もこの6月から7月にかけて、各地で記録的な大雨が生じています。現在も梅雨前線に伴う活発な雨雲の帯が形成されており、今日から明日にかけて、西日本から東北北部の日本海側を中心に激しい雨に警戒が必要であるとのことです。どうぞ一人ひとりの安全が守られますように願います。

被災された方々、いまも避難生活を余儀なくされている方々、困難の中にある方々の上に神さまのお支えを祈ると共に、私たちも引き続き、防災への備えをしてゆきたいと思います。

 

 

 

安倍元首相銃撃事件から1

 

 昨日、安倍晋三元首相の銃撃事件から1年を迎えました。このような暴力が、二度と繰り返されることがないよう願うものです。

この事件を契機として、旧統一協会(現・世界平和統一家庭連合)の問題、カルト宗教の問題が、改めて社会問題として注目をされることとなりました。新たに被害者救済法が成立することともなりましたが、いまだ十分な解決からはほど遠い状況です。私たちの社会が旧統一協会をはじめとするカルト宗教の問題に向き合い続けてゆくこと、また政治とカルト宗教団体との癒着の問題を追及し続けてゆくことは、引き続き重要な課題です。

 

カルト宗教についてはまたぜひご一緒に学ぶ機会を持ちたいと思いますが、カルトの最大の問題性は、人権侵害にあります。カルト団体は人権侵害を行っているから問題なのであり、私たちが社会全体の問題として向き合わなければならないものです。安倍元総理の銃撃事件を受けて、カルト宗教2世の方々の苦しみにも焦点があてられるようになりました。カルト宗教による人権侵害によって、いま苦しみ痛みを覚えている方々のために私たちにできること、なすべきことを神さまに祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

部落解放祈りの日

 

 先週の礼拝メッセージでは、《神は人を分け隔てなさらない(使徒言行録1034節)という聖書の言葉をご紹介しました。

「神は人を分け隔てなさらない」とは、言い換えますと、神は人を差別なさらないということです。神さまの目から見て、一人ひとりが、生まれながらに、価高く貴い(イザヤ書434節)存在である。これが、聖書全体が伝える真理であり、その中心的なメッセージの一つです。神さまから見ると一人ひとりが等しく、極めて「良い」存在、かけがえなく、大切な存在であるのです。

この私も、私につながる一人ひとりも、キリストに結ばれているすべての人が、かけがえがない=替わりがきかない存在であること。だからこそ、私たちは互いに尊重し合い、重んじ合う道を歩むようにと招かれていることをご一緒に心に留めました。

 

本日7月第2主日は、私たちが属する日本キリスト教団のカレンダーでは「部落解放祈りの日」にあたります。礼拝の中でこの後ご一緒にお読みする「リタニ―」には次の祈りの言葉があります。《司会者:私たちが生きる社会には、そして私たち自身の心の中には、今も多くの差別が存在しています。/会衆:主よ、私たちの心をただし、あらゆる差別から解き放ってください》。

 

神は人を分け隔てなさらない――。人を分け隔てしてしまうのは、私たち自身です。私たちの心の中には、今も様々な隔ての壁が存在しています。私たちの社会の中には、部落差別をはじめ、今も様々な差別や偏見が存在しています。部落解放祈りの日にあたって、私たちが様々な差別から一つひとつ、解き放たれてゆくことができますように、共に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

エウティコとパウロ

 

メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所である使徒言行録20712節をお読みしました。パウロの話を聞いていたエウティコという若者が、つい眠気に襲われて3階の窓から落ちてしまったというびっくりする場面です。

 

その日、たくさんの人が家に集まって、使徒パウロのお話を聞いていました。パウロの話は夜遅くまで続きました。エウティコは窓に腰を掛けて話を聞いていましたが、パウロの話があまりに長く続くので、だんだんと眠くなってきてしまいました。そうしている内に、エウティコはすっかり眠ってしまい、3階から下に落ちてしまいました。

皆は驚いてエウティコのもとへ駆けつけます。誰もが、もう死んでいると思いました。パウロはエウティコの上にかがみこみ、抱きかかえて、言いました。《騒ぐな。まだ生きている》(10節)。エウティコは息を吹き返しました。パウロたちはまた上へ行って、パンを裂いて食べ、朝が来るまで話を続け、出発しました。人々は生き返ったエウティコを連れて帰り、大いに慰められました。

 

短いですが、印象的な場面です。皆さんも窓に腰かけて話を聞くことは絶対にしない(!)でくださいね。使徒言行録の著者ルカも、この出来事を印象深く覚えていて、これを記したのでしょう。

ただし、「周りの人々はもう死んでしまったと思ったけれど、実はまだ生きており、パウロはそれに気づいていた」というだけのお話であったなら、著者のルカはこの話をわざわざ書き記すことはなかったかもしれません。著者のルカは、この出来事の内にイエス・キリストの復活の力を見出し、この話を著作に記したのだと言えます。ルカは、自分たちの間にキリストの復活の命の力が働いていると受け止め、だからこそ感謝と深い慰めの内にこのエピソードを書き記したのでしょう。

復活されたイエス・キリストはいま生きて働いてくださっており、私たちはその復活の命の力に生かされているのだ、と。

 

 

 

復活 ~人を起き上がらせる力

 

「復活」という語は、もとのギリシャ語では「立ち上がる」「起き上がる」という意味をもつ言葉です。イエス・キリストが暗い墓の中から「立ち上がった/起き上がった」。そのことを、「復活した」と訳しているのですね。

 

ヨハネによる福音書の中には、《私は復活であり、命である(ヨハネによる福音書1125節)というイエス・キリストの言葉があります。イエス・キリストの内にこそ復活の命があることを、イエスさまご自身が宣言されている箇所です。

 岩手県気仙地方の言葉で聖書を訳した『ケセン語訳聖書』の著者・山浦玄嗣さんは、この箇所を《この俺にァ、人ォ立ぢ上がらせる力ァある》と訳しています(『イエスの言葉 ケセン語訳』、文春新書、2011年)。「復活」を「人を立ち上がらせる力・起き上がらせる力」と表現しているのですね。

 

聖書が記す復活の物語とは、イエス・キリストが「復活した」物語であると同時に、残された人々が「再び立ち上がらせられていった」物語でもあります。深い悲しみの中で起き上がれないでいたその魂が、再び起き上がらせられていった物語でもあるのです。

イエス・キリストの復活の力は、私たち一人ひとりの内に、私たち一人ひとりの間に、いま働いてくださっていることを本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

棺の中の若者を起き上がらせた主イエス

 

 礼拝の中で、ルカによる福音書71117節を読んでいただきました。イエスさまがナインという町で、棺の中に入っている若者を起き上がらせた物語です。

 

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。/イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。/主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。/そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。/すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった1115節)

 

 エウティコの場合、皆が駆けつけた時にもしかしたらまだ仮死状態であったのかもしれません。しかし、このルカ福音書において、若者は完全に亡くなっています。棺の中に納められ、葬送のために担ぎ出されるところであったからです。

 若者の母親は夫がおらず、その若者が一人息子でした。イエスさまは息子に先立たれた母親の悲嘆に暮れる姿を見て、憐れに思い、《もう泣かなくともよい13節)とおっしゃいました。

 そして、若者が納められている棺に近づき、手を触れて、《若者よ、あなたに言う。起きなさい14節)とおっしゃいました。すると、死んでいた若者は起き上がって、ものを言い始めました。そうして、イエスさまは息子をその母親のもとにお返しになりました。

 

 

 

《もう泣かなくともよい》

 

聖書は、神さまがいつの日か、私たちすべての者の涙をぬぐってくださる日が来ることを記しています。《そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、/彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録2134節)

 

私たちはいまは涙を流し続けているのだとしても、いつの日か、神さまは私たちの目から涙をぬぐってくださる。その時が必ず来ることを、私たち教会はこの2000年間、希望として信じ続けてきました。ルカによる福音書71117節は、そのことを先どって私たちに示してくれている場面として受け止めることができるでしょう。

と同時に、復活されたイエスさまはいま、生きて働いてくださっていることも、聖書が証している真理です。イエスさまはいま、私たちに《もう泣かなくともよい》と語りかけてくださっているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

イエスさまは、私たちの涙をよく知っていてくださいます。私たちが悲嘆に暮れる姿をよく知っていてくださいます。イエスさまは私たちと共に涙を流しながら(ヨハネ福音書1135節)、いま、《もう泣かなくともよい》と私たちの顔から涙をぬぐおうとしてくださっています。

 

 

 

《あなたに言う。起きなさい》

 

 いまは天にいる愛する人々がイエスさまと同じようによみがえるのは、未来のことであるかもしれません。主が再び来られるその時であるのかもしれません。しかしたとえ天と地とに引き裂かれていても、天にある者も、地にある者も、私たちはいつもイエスさまの復活の命の内に一つに結ばれていることを私たちは信じています。私たちはその命の約束を、変わらぬ希望として信じています。イエスさまはその命の約束を携え、いま、私たちに《もう泣かなくともよい》と語りかけて下さっています。希望を失い、悲嘆の中で、暗闇の中で、起き上がれなくなっている私たちの心に。

 

 このよみがえりのイエスさまに私たちの心を向けるとき、私たちは次の声を聴きます。《あなたに言う。起きなさい》――。閉ざされた棺の中に横たわる若者に告げられたこの言葉は、いま、私たち一人ひとりに告げられています。

 

 

 私たちの涙をぬぐい、私たちの魂を再び起き上がらせてくださるイエスさまの復活の命の言葉に、いま、私たちの心を開きたいと願います。