2023年8月20日「御言葉を行う人に」
2023年8月20日 花巻教会 主日礼拝説教・平和聖日
聖書箇所:アモス書5章18-24節、ルカによる福音書13章10-17節、ヤコブの手紙1章19-27節
《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》
教会やお寺には掲示板というものがあります。通りに面したところに設置されている掲示板です。教会の掲示板では、次の日曜日の説教題や集会案内が掲示されていることが多いです。花巻教会にも通りに面したところに掲示板があります(この春に外装をリニューアルしました)。お寺の掲示板では、標語やそのお寺の住職さんからのメッセージが掲示されていることもありますね。私もお寺の前を通るときは、つい掲示板を見てしまいます。
お寺に掲示されていた文章で、私がよく思い起こす一文があります。実物を観たのではなく、SNSで偶然、画像を目にしたものです。《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》(@renkouzan 、2018年10月7日投稿)。
東京の妙円寺というお寺の掲示板の言葉で、ノンフィクション作家の久田恵さんの言葉の引用であるそうです。
確かにそうだなあ、と思わせられる言葉です。その人が言っていることではなく、その人がやっていることにこそ、その人の内実が現れているというのは、私たちもよく実感できることですね。
と同時に、我が身を振り返って、ドキッとさせられる言葉でもあります。言葉だけになってしまって、実際の行動が伴っていないことは、私たちにはよくあることです。あるいは、「言っている」ことと「やっている」ことが矛盾していることも、よく生じることではないでしょうか。
《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》。どれだけ立派で「正しい」ことを言っていても、普段の行動にこそ、私たちの内実が現れている――。戒めとして、心に留めておきたい言葉です。どれだけ立派で道徳的なことを言っていても、その人が身近なところで誰かを軽んじていたり、誰かの尊厳を傷つけていたとしたら、それらの言葉は虚しく響くだけものになってしまうことでしょう。
「羊の皮を被った狼」「実によって木を知る」
聖書の中にも、この標語と共通する内容の言葉があります。たとえば、「羊の皮を被った狼」「実によって木を知る」という言葉。よく知られたイエス・キリストの山上の説教(マタイによる福音書5~7章)に含まれている言葉です。
《偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。/あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。/すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。/良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。/良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。/このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける》(マタイによる福音書7章15-20節)。
「羊の皮を被った(着た)狼」は慣用句にもなっている表現ですね。表面上は穏やかで親切、いかにも「いい人」を装っているが、その内には悪意を隠し持っている人のことを表す言葉です。
悪しき意図をもった人は「悪人」の顔をして近寄ってこない。これも、確かにそうだなあ、と思わされます。悪意をもった人は、一見「いい人」の顔をして私たちに近寄ってくるものです。立派な言葉や信仰深い言葉、美しい言葉を並べて人々の関心を引こうとすることもあるでしょう。イエスさまはここで、そのような人々によくよく気を付けなさい、と警告を発しておられます。
では相手の意図を見極めるにあたって、どの点に注意したらよいのか。イエスさまは、相手の本当の動機付けや内実を見分けるにあたって、「その実で見分ける」ことをアドバイスしておられます。樹木にみのる果実ですね。《すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(略)あなたがたはその実で彼らを見分ける》(同17、20節)。
ここでの《実》とは、その人の実際の振る舞いや生き方を指していると受け止めることができるでしょう。先ほどの標語の表現を踏まえると、「言っていることではなく、やっていること」です。行動の果実にこそ、その人の内実がはっきりと現れます。果実を見ればその樹が何の樹か分かるように、その人の「やっていること」を見れば、その人のことが分かる。そのようにして相手の心の中にあるものを適切に見分けるように、とイエスさまは述べておられます。
どれほど愛と平和の大切さを説いていたとしても、その人が身近なところや隠れたところで誰かを軽んじその尊厳を傷つけているとしたら、その「やっていること」にこそその人の内実が示されていると言えます。
《御言葉を行う人になりなさい》
《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》という言葉、「羊の皮を被った狼」「実によって木を知る」という聖書の言葉をご紹介しました。他者を判断する際に思い起こしたい言葉であるのみならず、日頃の自分自身の在り方を顧みる際に思い起こしたい言葉です。
引用した言葉に共通しているのは、日頃の実際の振る舞いや行動が大切である、という視点です。言葉ももちろん大切ですが、時に、私たちの言葉は言葉だけのものになってしまう。あるいは、時に、私たちは言葉は他者や自身を欺くために使われてしまう。その点、私たちの実際の振る舞いや行動は嘘をつかない。いや、嘘をつけない。そこにそのまま、私たちの本心や在り方が現われています。
本日の聖書箇所であるヤコブの手紙1章19-27節の中に、《御言葉を行う人になりなさい》という言葉がありました。《御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません》(同1章22節)。
イエスさまの言葉を聞いて終わるのではなく、御言葉を聞いて、実際に行う人になりなさいと勧められています。イエスさまの愛の教えを聞くだけにとどめておくのではなく、「人を大切にする」というその教えを、日々の生活で実行することの大切さが語られているのですね。
イエスさまの愛の教えを「聞いて行う」ことの大切さ
このように、「御言葉を行う」ことの大切さを一貫して語っているのが、このヤコブの手紙の特徴です。マタイ福音書の山上の説教と共に、新約聖書の中でかけがえなく大切な役割を果たしている手紙だと言えるでしょう。キリスト教の歴史において、時に、行動よりも信仰が大切だと誤解されて伝えられることがあったからです。信仰に強調点を置くあまり、信仰を行為よりも優位なものとして位置づけるという考えですね。その考えは時に、実践的な行動や生き方を軽んじる考え方につながってしまうこともありました。しかし、イエスさまを信じる信仰も、その信仰に基づいた具体的な行動や生き方も、等しく大切なものです。本来、どちらか一方が優位に位置づけられるというものではありませんね。
イエスさまの愛の教えを「聞いて行う」ことの大切さを、本日は改めてご一緒に心に留めたいと思います。
聞くことに早く、話すのに遅く、怒るのに遅く
ヤコブの手紙は「聞いて行う」ことの大切さと併せて、「舌を制する」(26節)ことの重要性について語っています。自分の言葉を制御すること、です。私たちはしばしば、言葉によって他者を欺き、自分を欺いてしまうものだからです。
と同時に、ヤコブの手紙は《舌を制御できる人は一人もいません》とも述べています(3章8節)。言葉を制御することは、私たちにとってそれほど難しい課題です。完全に言葉を制御できる人は、確かにいないのかもしれません。
自分の言葉を制御するために、私たちができることの一つは、「聞く」ことを意識することではないでしょうか。他者の話をまず「聞く」ことを意識すること。本日の聖書箇所の冒頭には、このような言葉がありました。《わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい》(1章19節)。聞くことに早く、話すのに遅く。これも、ドキッとさせられる言葉ですね。私たちはしばしば、相手の話を遮ってでも、自分の話をしたくなるものだからです。
またここでは、《怒るのに遅いようにしなさい》とも語られています。怒りは、相手の話を「聞く」ことを妨げる要因の一つです。自分の内に怒りがあるとき、人の話を遮ってでも話すようにと私たちを駆り立てます。いかに怒りを制御することができるかも、私たちにとって大切な課題ですね。
私たちはみな、心の深いところでは「人を愛する」ことを願い求めています。他者を「愛する」ことを祈り求めています。しかし怒りは、その本当の願いを私たちの内から見失わせてしまうのです。
近年は「アンガーマネジメント(怒りの管理方法)」という言葉も使われています。怒りと上手に付き合う方法です。よく知られているのは「6秒ルール」ですね(瞬間的な怒りを感じたら、『1、2、3、4、……』と6秒待ってみる)。言葉を完全に制御することができる人がいないように、怒りを完全に制御できる人はいないかもしれません。また体調などによって、どうしても自分でも怒りを制御することが難しい場合もあると思います。
怒りを感じること自体は悪いことではありません。怒りは私たちが生きてゆく上でとても大切な感情です。と同時に、時に、怒りは自分自身や他者を傷つけてしまう方向へ向かってしまうこともあります。私たちは経験やトレーニングを積んでゆくことで、そのような攻撃的な怒りをある程度、コントロールすることができるようになることも可能でありましょう。大切なのは、自分にできる範囲で、怒りと上手く付き合っていけるよう意識してゆくことだと思います。そしてそのことは、自分を大切にし、他者を大切にする姿勢ともつながっています。
聞くことに早く、話すのに遅く、怒るのに遅く――これらのことを意識することは、イエスさまの愛の教えを聞いて行うことにつながっているのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
神さまの愛の言葉を聞く(聴く)こと
本日のメッセージの後半では、《御言葉を行う人になりなさい》というヤコブの手紙の言葉に関連して、イエスさまの愛の教えを「聞いて行う」ことの大切さをご一緒に心に留めました。
また、自分の言葉を制御するために、「聞く」ことを意識することについても述べました。他者の話をまず「聞く」姿勢を意識すること。またそして、私たちにとって大切なことは、まず、神さまの言葉を「聞く」ことです。私たちに対する、神さまの愛の言葉を聞く(聴く)こと。
「私の目にあなたは価高く、貴い。私はあなたを愛している」(イザヤ43章4節)――。神さまはいつも私たちにそう語りかけて下さっています。イエスさまを通して、語り続けて下さっています。
あなたの存在がいかに貴いものか。神さまの目に、かけがえなく、大切なものであるか――。この神さまの愛を言葉を聴き続け、いつも心に留めていることで、私たちは少しずつ、その愛を他者に対して実践することができるよう、導かれてゆきます。イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、互いを大切にすることができるように導かれてゆきます。
私たちが自分の日々の行動や生き方を通して、神さまの愛を現してゆくことができますように、互いを重んじ合い、尊重し合ってゆくことができますように、ご一緒に神さまの導きをお祈りいたしましょう。