2023年9月10日「イエス・キリストの十字架のほかに」

2023910日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編14218節、ルカによる福音書142535節、ガラテヤの信徒への手紙61418

イエス・キリストの十字架のほかに

 

 

ここ数日、朝晩と幾分暑さもやわらいできました。皆さんもようやくホッとしていらっしゃるのではないでしょうか。金曜日から本日にかけて、花巻では花巻まつりが行われています。本日も大勢の人が教会の前の通りを歩いていますね。今年は4年ぶりの通常開催、この3日間、日中は大雨になることなく、良かったです。どうぞ事故なく、すべてのプログラムを無事に終えることができますように。

 

私たちの日常の生活もずいぶん通常のかたちに戻ってきましたが、全国的にコロナの陽性者数がまた増加しています。引き続き、それぞれ体調管理には気を付けたいと思います。

また現在も、コロナ感染による後遺症、コロナワクチン接種による後遺症で苦しんでいる方々が多くいらっしゃいます。生活に困難を覚えている方々も多くいます。いま困難の中にある方々を覚え、引き続き、祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

920日以降、オミクロンXBB.1.5系統対応の新しいワクチンが接種可能となります。この度の新型コロナワクチンの健康への影響の懸念については、皆さんに繰り返しお伝えしてきました。この度の新型ワクチンは、健康への影響があまりにも大きいものです。主要なメディアではほとんど報じられることはありませんが、ワクチンによる深刻な影響が一部のメディアで明らかにされています。

 

たとえば、「健康被害救済制度」における新型コロナワクチンの被害認定数累計(期間:2021217日~2023831日)831日の時点で4,0988,667件の申請の内、4,098件が認定)、過去45年間のすべてのワクチンの被害認定数累計3,522件を超えたとのことです。また、このうち死亡一時金や葬祭料を補償した死亡例は、210件認定されています。

もう一つの「副反応疑い報告制度」では7月28日の時点で、2,076人が新型コロナワクチン接種後に亡くなったことが報告されています。ワクチンとの因果関係がはっきりと認められたのは2件で、約99%は「因果関係不明」と評価されています(参照:https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2023/09/06/71393/。ただし、「因果関係が分からない」という評価は、「因果関係がない」ことを意味するものではないことに厳重な注意が必要です。

 

ある専門家の方は、これらの報告は「氷山の一角である」と述べています。実際はこれよりもはるかに多くの方々が、ワクチンによる健康被害を受けていると私も考えています。ワクチン接種から体調不良が生じるまで時間差がある場合、その体調不良がワクチンに起因するものであると認識すること自体が難しいでしょう。いま多くの方々が、ワクチンが原因であるとは気づかず、基礎疾患の悪化や何らかの体調不良に苦しんでいるであろうことを懸念しています。皆さんにおかれましては、ぜひご自分でも情報を収集していただき(SNS等で検索すると様々な情報が出てきます)、もうこれ以上の追加接種はしないように、強くお願いいたします。

 

 

 

まど・みちおさん作詞『ぞうさん』

 

来週の918日(月)から19日(火)にかけて、盛岡つなぎ温泉を会場にして、第28期奥羽教区婦人会連合第41回「集い」が開催されます。今回の担当地区は岩手地区で、現在、実行委員会の皆さまが懸命に準備をしてくださっています。準備の上に神さまのお守りがありますようお祈りください。

 

今回は、私が講師のご奉仕をすることとなりました。講演題は『空の鳥、野の花を見てごらん ~「いること」の大切さ』、1日目の講演では、詩人・童謡作詞家のまど・みちおさんの作品を取り上げる予定です。講演題は『まど・みちおさんの詩と神の国のまなざし ~「いること」の大切さ』としました。

 

まど・みちおさんについては、皆さんの中にもよくご存じの方もいらっしゃると思います。まどさんの作詞で一番知られているのは童謡の『ぞうさん』ですね。《ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね そうよ かあさんも ながいのよ》。他にも、『やぎさん ゆうびん』『ふしぎな ポケット』『いちねんせいになったら』などの童謡も、まどさんが作詞したものです。

私がまどさんの詩と出会ったのは、小学4年生のときでした。書店の棚に偶然、『まど・みちお少年詩集 いい けしき』(フォア文庫、1993年)を見つけ、自分のお小遣いで買ったのです。もちろん、その以前から『ぞうさん』をはじめ、まどさんの童謡には親しんでいましたが、「まど・みちお」というユニークな名前を意識するようになったのは、その時からです。以来、まど・みちおさんの作品のファンになりました。大学の卒業論文でも、まど・みちおさんの詩作品を取り上げました。

 

あるインタビューの中で、まどさんは『ぞうさん』の歌詞に関して、このように述べていました。

「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね」と言われた子どものゾウは、ふつうであればそれをからかいや悪口と受け取るのが当然。この世の中にあんな鼻の長い生き物はいないからです。ところが、子ゾウはほめられたつもりで、うれしくてたまらないふうに「そうよ かあさんも ながいのよ」と答える。それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、かねがね誇りに思っていたからなんです、とまどさんは語ります。

『ぞうさん』の二番の歌詞は、皆さんもご存じのとおり、次のように続きます。《ぞうさん ぞうさん だれが すきなの あのね かあさんが すきなのよ》。

子ゾウにとって、母親は世界中で一番の存在。その大好きなお母さんに似ている自分も素晴らしいのだと、ごく自然に感じている。

つまり、『ぞうさん』という歌は、《ゾウに生まれてうれしいゾウの歌》なのだと、まどさんは語ります。そのように、あの歌の詞は読まれたがっている、と(『いわずにおれない』、集英社be文庫、2005年、11頁)

 

《ゾウに生まれてうれしいゾウの歌》。言い換えますと、「ゾウがゾウであること」を喜んでいる歌。『ぞうさん』という歌には、このような想いが込められていたのですね。《自分が自分であること、自分として生かされていることを、もっともっと喜んでほしい。それは、何にもまして素晴らしいことなんですから》(同、14頁)とまどさんは述べています。

これは『ぞうさん』だけではなく、まど・みちおさんの作品のすべてに込められた願いであるということができます。まどさんの詩の中で描写される一つひとつの存在は、「自分に生まれたこと」「自分が自分であること」を喜んでいます。

 

「わたしがわたしであること」、このことが喜びになったなら、どんなに幸せなことでしょうか。「ゾウがゾウであること」、そして「わたしがわたしであること」そのことが喜びであれば、私たちはどんなに幸福なことでしょうか。

 

 

 

私たちが「あるがまま」でいることをゆるさない社会

 

 現在、私たちの社会では多くの場合、この「わたしがわたしであること」の喜びが見失われているように思います。自分をそのままに受け入れることができない。多くの人がその悲しみ、痛みを抱えながら懸命に生活をしています。

 

 その背景には、私たちの社会自体が、私たちが「あるがまま」でいることをゆるさない社会になっていることがあるのではないでしょうか。その人が、そのままのその人であることがゆるされない――。より有用な、より社会の役に立つ人間になることが常に要請されている。多くの人が、社会から、周囲から、もっと立派な人間になるよう、もっと有用な「人材」になるよう、絶えずプレッシャーをかけられています。いつも誰かに、何かに、後ろからせかされているような感覚とでも言いますでしょうか。

 そのよう無言の圧力を受ける中、子どもも大人も、いま多くの人が、心の奥底に不安や強いストレスを抱えながら生活をしているように思います。

 

 

 

律法に縛られる生き方を自らに課していたパウロ

 

 メッセージのはじめに、本日の聖書個所であるガラテヤの信徒への手紙61418節をご一緒にお読みしました。この手紙を記したのは、パウロという人物です。パウロはもともとは熱心なユダヤ教徒でしたが、イエス・キリストとの出会いを通して回心を経験し、今度は熱心なキリスト教徒となった人物です。パウロは本日の手紙において、次のように記していました。14節《しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです》。

イエス・キリストの十字架に一心に目を注ぐパウロの信仰がよく表れている一文であると思います。十字架のキリストとの出会いによって、パウロはその生き方がまったく新しく変えられることとなりました。

 

キリストと出会う前の若き日のパウロは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の律法(神の掟)を忠実に守り、立派な人間になることを懸命に目指していました。弱さを克服し、立派な、非の打ちどころのない人間になれば、神さまは自分を受け入れ、愛してくださるだろうという意識があったのだと思います。

しかしそのような日々の中で、パウロは心の奥底では、辛さを感じていたのかもしれません。パウロがその時生きていた世界は、そのままの自分でいることがゆるされない世界であったからです。いわば、「条件付きの世界」です。若き日のパウロは、自分にムチ打ちようにして、自己鍛錬の生き方に没頭していたのかもしれません。

律法自体が悪いわけではなく、パウロが律法に縛られる生き方を自らに課してしまっていたところに問題があったと言えるでしょう。パウロにとって、律法を守ることはもはや恵みではなく、重苦しいノルマと化してしまっていたのです。

 

 

 

十字架のキリストとの出会い

 

そのような中、ある日、パウロは復活されたイエス・キリストと出会います。それがどのような経験であったのかははっきりとは分かりませんが、パウロは、十字架におかかりになったキリストと出会うという、何らかの深い宗教的な経験をしたようです。その時、キリストは十字架にはりつけになったお姿で、パウロに語りかけられました。

この十字架のキリストとの出会いによって、パウロの目から、ポロっとウロコのようなものが落ちました(使徒言行録918節)。そうして、パウロの心の前に、世界がまったく新しく立ち現れるようになりました。

 

それは、あるがままの自分が受け入れられている世界、一つひとつの存在が「よし」とされている世界であったのではないか――と私は受け止めています。

律法を忠実に守るから、「よし」とされるのではない。懸命に自己を鍛錬し、有用な人間になるから、「よし」とされるのではない。いま、そのままの自分が、神さまに受け入れられ、「よし」とされている。その真理を、キリストは十字架にはりつけになったお姿で、弱さの極みであるそのお姿で、パウロに語りかけてくださったのではないでしょうか。

私たちが立派な信仰をもてば、律法遵守というノルマを果たせば、神さまは私たちを愛してくださる、というのは誤解でありました。私たちの努力を超えて、無条件に私たちを受け入れ愛してくださっている、というのが神さまと私たちのまことの関係性であったのです。

いつも何かに後ろからせかされるような感覚であったパウロはこの時はじめて、心の底からの安心感、平安を覚えることができたのではないかと思います。

 

弱さは克服するものではなく、そのままに受け入れるもの。弱さの中にこそ、キリストの力は発揮される(コリントの信徒への手紙二129節)――。パウロはイエス・キリストを通して新しく、「無条件の(肯定の)世界」に出会ったのです。

 

 

 

イエス・キリストの十字架のほかに

 

私たちの弱さの中に、イエス・キリストは十字架におかかりになった姿で、共におられます。最も無力な、十字架にはりつけになったお姿で――。

そして、その最も低きところから、キリストは私たちに向かって「生きよ」と叫んでおられます。この命の言葉によって、私たちは生きる力、再び立ち上がる力が与えられてゆきます。私たちの存在の奥底で輝く消えることのない光、この光が、私たちの力の源です。

だからこそ、パウロは言います、《このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。…》。

 

 

 

「いること」こそが尊い

 

先ほど、私たち社会自体が、私たちがあるがままでいることをゆるさない社会になっていることを述べました。

たとえ私たちが自分自身を受け入れることができていなくても、神さまは「あなたがあなたであること」を受け入れ、祝福してくださっている。たとえ周囲が自分をそのままに受け入れてくれていなくても、神さまが、私をあるがままに受け入れてくださっている。他ならぬ、私を造られた神さまが、自分を受け入れ、「よし」としてくださっている。いま私たちはその真理を思い起こしたいと思います。その喜びを思い起こしたいと思います。

この喜びに満たされるからこそ、私たちは再び立ち上がる力が与えられてゆくのではないでしょうか。より良い在り方へと変わってゆく勇気もまた、与えられてゆくのではないでしょうか。パウロは私たちに力を与えるこの神さまの力を「福音」と呼びました。

 

この福音の力が満ちあふれる世界において大切なことは、私たちがいまここに「いること」です。いま「生きて存在していること」です。「いること」こそが、この新しい世界において最大に価値あることである、と私は受け止めています。

 

いま私たちが生きている社会は、「いる」だけでは駄目なんだ、何か社会的に有用な働き、貢献が出来ていないといけない、そういう考え方に覆われてしまっています。多くの人が辛さ、生きづらさを感じつつ、懸命に生活をしています。このような中にあって、あるがままの自分が神さまから「よし」とされていること、私たちがいまここに「いること」こそが尊いということを、ご一緒に思い起こしたいと思います。