2026年6月14日「イエス・・キリストの名によって」
2026年6月14日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書5章1-20節、使徒言行録16章16-24節
「イエス・キリストの名によって」
新約聖書が書かれた時代 ~ローマ帝国による支配
私たちが読んでいる新約聖書は、いまから2000年近く前に記されたものです。最も初期に記された文書はパウロの手紙であるテサロニケの信徒への手紙一で、紀元50年頃に記されたと考えられています。先ほど礼拝の中でご一緒にお読みしたマルコによる福音書は、紀元70年を過ぎて間もなく、あるいは紀元70年代に書かれたと考えられます。いずれも大昔(!)ですね。日本だと弥生時代の後期頃にあたります。
新約聖書が記された当時、最も権力をもっていたのはローマ皇帝でした。聖書の舞台であるパレスチナ全土は、ローマ帝国の支配下にあったのです。まだ誕生して間もないキリスト教は当時マイノリティであり、社会的に大変弱い立場にありました。「キリスト教徒である」という理由だけで、社会的に差別され、場合によっては迫害される状況もありました。当時はいまだローマ皇帝の命による大規模なキリスト教徒への迫害は行われていなかったようですが、散発的にいやがらせや迫害が生じていたようです。時には教会の指導者が捕らえられたり、殺されたりすることもあったと考えられています。
そのような状況の中、新約聖書の文書の著者たちは、ローマ帝国への批判や注意喚起を間接的な言葉で著わしました。直接的な言葉ではなく、象徴的な言葉でもって表現をしたのですね。たとえば、ヨハネの黙示録はその代表的な文書の一つです(紀元90年代後半に執筆?)。ヨハネの黙示録には一見、何を表そうとしているのか分からない不思議な表現が出て来ます。それらの不思議な表現が、暗にローマ皇帝への批判となっているという箇所が幾つもあります。そのような手法を取ることで、ローマ帝国から無暗な攻撃にさらされることを避けつつ、同時に、分かる人には分かる言葉でローマへの批判を記そうとしたのでしょう。著者ヨハネは夢や幻を通してローマの支配を間接的に批判しつつ、仲間のキリスト者たちに苦難を耐え忍ぶよう励ましています。
ローマ皇帝への批判が暗号として記されている有名な例は、「666」という数字でありましょう。欧米ではこの数字は悪魔の数字とされ、ホラー映画にも出て来るものですが、元々はヨハネの黙示録に出て来る数字です(13章18節。ヨハネの黙示録では《獣の数字》として登場)。この暗号は、解読すると「皇帝ネロ」の名前になると言われています。ローマ皇帝のネロは64年のローマの大火の際、キリスト教徒を迫害したとの伝承で知られる人物です。このネロのようにキリスト教徒を迫害する皇帝が再び現れていることへの注意がなされているのですね。当時、ローマの皇帝であったのはドミティアヌス(在位81~96年)という人物でした。実際、ドミティアヌスによる治世の終わり頃、キリスト教徒への迫害が生じています。
ヨハネの黙示録ではこのようにローマ皇帝を暗に批判しつつ、近い将来――終わりの日(終末)に――イエス・キリストが再臨し、これら強大な勢力を打ち倒すのだと語っています。「ローマ帝国の支配が終わる」ことを宣言しているわけですから、当然ながら、当時としては危険思想ということになります。ですので、それらのメッセージを象徴的な表現で、間接的に書き記す必要もあったのでしょう。
レギオン、《大勢》なる者
新約聖書が記された当時の社会状況についてお話しました。聖書を読む際、その文書が記された時代背景を知ると、より言葉の意味が分かるようになることがあります。本日の聖書箇所の一つ、マルコによる福音書5章1-20節も、いまお話したことを踏まえて読んでみると、より分かりやすくなる箇所であるかと思います。
本日の聖書箇所も一見、何が書かれているのか分かりづらい物語となっていますね。一人の男性に取りついていた大勢の悪霊とイエス・キリストとの対決を描いた場面です。悪霊が豚の中に入ると、二千匹ほどの豚が湖になだれ込んだ、という異様な出来事も記されています。なんだかちょっと怖さも感じるような、不思議な物語です。どうやらこの物語にも、ローマ帝国への批判、密かな反抗心が隠されているようなのです。
9節から、改めて読んでみたいと思います。男性に取りついた悪霊に、イエスさまが名前をお尋ねになるシーンです。
9-10節《そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。/そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った》。
悪霊たちは名前を訪ねられ、《名はレギオン。大勢だから》と答えました。何のことやら分からない答えですが、当時のパレスチナの人々にとっては、この《レギオン》という名前はよく知られていたものであったようです。
レギオンとは、当時パレスチナに駐在していた、ローマ軍の名称でした。一つの隊で4000~6000人もの人数となる、大規模な軍隊であったようです。まさに《大勢》です。よって当時の人々にとって、《レギオン》とは「たくさんの数」の代名詞となっていたのかもしれません。男性には《大勢》の悪霊が取りついていたので、そのたくさんの数を表現する《レギオン》という名をもっているのだ、ということが語られています。
たくさんの悪霊が取りついていることを表現するために《レギオン》と名乗っているのだということは理解できましたが、しかしここで大勢の悪霊とローマ軍とを結びつけているわけですから、物騒な表現であるということになります。暗に、ローマ軍は悪霊とイコールであると語っていることになるからです。ここに、マルコ福音書によるローマ帝国への批判が見いだすことが出来るでしょう。
しかも、マルコはローマ帝国への批判を示すにとどまりません。ローマ帝国の権威は、イエス・キリストによってひっくり返されるのだということを語ります。そのことを象徴的に表しているのが、大勢の豚が湖になだれ込む場面です。
11-13節《ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。/汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。/イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ》。
大勢の《豚》も、ローマ軍隊《レギオン》を象徴している可能性があります。当時、ユダヤ教の人々の間では豚は「汚(けが)れた」動物であるとされていましたから、ローマ軍を大勢の豚として表現しているのだとしたら、そこには強烈な皮肉が込められているということができるでしょう(もちろん、これらは現代においては適切な表現ではありません)。そしてその大勢の豚は崖から湖になだれ込み、おぼれ死んでしまう。つまりローマ軍隊の権威はひきずり降ろされ、そして滅ぼされてしまうということが暗に描かれているのだと受け止めることができます。イエス・キリストのまことの権威を前に、ローマ帝国の権威は失墜し、滅ぼされるだろうと宣言されているのです。このように受けとめてみるとき、今回の聖書箇所が謎めいた、不思議な表現の仕方を取っている意図が分かって来るのではないでしょうか。
《大勢》の集団の本質
本日の物語の冒頭で、《レギオン》に取りつかれていた男性の悲惨な境遇が語られています。男性は共同体の外に追いやられ、墓場を住まいとしていました。度々足枷や鎖で縛られたことがあったと記します。しかし男性は自ら鎖を引きちぎり、足枷を砕きます。悪霊に取りつかれた危険人物として共同体から排除されてしまっていたことが伺われます。
男性の病いの要因は個人的なものではなく、もっと大きなものがその背後にあることが、すでに私たちには示されています。《レギオン》という名で暗示される勢力が、この男性をここまで追い詰めてしまっていたのです。ローマ軍の支配下にある当時の社会の構造が大きな要因として関わっているのだと解釈することもできるでしょう。
《レギオン》という名に象徴されるこの勢力の本質は、《大勢だから》という言葉の中に端的に示されているように思います。この《大勢》なる勢力の本質は、「不特定多数」というところにあります。とても大勢の数が集まっていますが、その中においては一人ひとりの人格というものは存在していません。それぞれが替わりがきく存在であり、そこに個々人が「かけがえのない」存在という視点は存在していません。
《レギオン》なる《大勢》の集団において失われているもの、それは「個人の尊厳」ということです。ローマ帝国の軍隊に象徴されるこの《大勢》なる集団において見失われているもの、それは個人の尊厳であると本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
神の国の福音の本質
イエスさまが私たちに伝えて下さっている神の国の福音は、これら《レギオン》の論理とは真逆のものです。神の国においては、「一人ひとりのかけがえのなさ(尊厳)」ということが最も大切なものとされます。わたしの替わりとなる存在は、どこにも存在しない。あなたの替わりとなる存在は、どこにも存在しない。神さまから見て、私たち一人ひとりはかけがえなく、貴い。その真理を伝えてくださっているのが、神の国の福音です。
イエスさまは自ら男性のもとに赴かれ、この一人の男性に神さまからの尊厳の光を取り戻されました。個人の尊厳を取り戻されました。イエスさまはこのただ一人の男性のためだけに、ガリラヤ湖を渡ったのです。
その光を受けて、男性に取りついていた悪霊たちは、もはや男性の内にはいられなくなりました。《レギオン》は本質的に、個人の尊厳の視点とは同時に存在することはできないからです。イエスさまが伝える神の国は、一人ひとりに存在のかけがえのなさ(尊厳)を取り戻してくださるものです。対して、悪霊は存在のかけがえのなさを否定する力であり、両者は本質的に相容れないのです。
《レギオン》は男性から出て行って、大勢の《豚》の中に入ることを願います。しかしイエスさまと同じ場にいること自体に耐え切れず、ついには湖の底に消えてゆくことになります。
私たちの目には余りに強大な勢力に見える《レギオン》も、イエスさまの神の国の権威の前に打ち倒されるということが、はっきりとここで示されています。
イエス・キリストの名によって ~個人の尊厳の取り戻し
まことに力あるものとは、私たち一人ひとりに神さまから与えられている尊厳の力です。この尊厳の力こそが、やがては大きな山、巨大なピラミッドをもひっくり返すことにさえつながってゆくのだとマルコ福音書は述べています。イエス・キリストの名によって(使徒言行録16章18節)、悪霊は私たちの間から追放され、その支配は力を失ってゆくのです。
《大勢》なる者の論理は、いまも私たちの間で力を奮っているように見えます。神さまの前にかけがえのない存在である一人ひとりの個人が、まるで人格のない道具のように扱われている、悲しむべき現実があります。私たちの近くに遠くに、悪霊の力による支配があるのではないでしょうか。またそして、一人ひとりの存在を替わりがきくものとし、命と尊厳を傷つける、その暴力の最たるものが戦争です。
私たちはいま神の国の福音に固く立ち、個人の尊厳を私たちの間に取り戻してゆかねばなりません。イエス・キリストの名によって、一人ひとりのかけがえのなさを取り戻してゆかねばなりません。私たちの先頭には、神の御子イエス・キリストその方がおられます。
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