2026年1月1日「子ろばに乗った救い主」
2026年1月1日 花巻教会 新年礼拝説教
聖書における「馬」
新しい年のはじめ、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできますことを感謝いたします。今年一年、皆さんの上に神さまの祝福とお支えがありますようにお祈りいたします。
今年2026年の干支は丙午(ひのえうま)、十二支では午年(うまどし)です。こちらに置いているのは妻が作ったステンドグラスです。『遠野物語』の「オシラサマ」をモチーフにしたもので、今年の午年に合わせて作成しました。この伝承の舞台となっている、馬と人間が一つ屋根の下に生活していた「曲がり家」は、全国的にもよく知られているものですね。私たちが住む岩手においても昔から、人間と馬とは切っても切り離せない、大切な関係にありました。
聖書の中にも、馬は数多く登場します。イエスさまがお生まれになったのも馬小屋(家畜小屋)でしたね(実際に家畜小屋に馬がいたかは聖書に記されていませんが……)。
旧約聖書(ヘブライ語聖書)において、馬は特に、軍馬として登場します。戦争に使用する、戦車用の馬です。古代オリエントの世界では、馬の軍事利用が発達していたそうです。よって、馬は聖書において力を象徴する動物として記されることもあります(参照:『新共同訳 聖書辞典』、キリスト新聞社、1995年、63頁)。
荷物や物資の運搬の手段として一般の人々の生活を支えていた動物は、ろばでした(他に物資を運ぶ家畜として、らくだ、らば等がいました)。古代オリエントでは古くから、ろばは荷物の運搬のために広く使用されていました。運搬の他、人が乗ることもあったようです。当時の人々にとって、馬は戦争のイメージと結びつく動物で、自分たちの生活と結びついた身近な動物としてイメージするのは、ろばの方であったのかもしれません。
子ろばに乗った王
これらのことを踏まえた上で、改めて本日の聖書箇所を読んでみたいと思います。まず、旧約聖書のゼカリヤ書9章9-10節を読んでみましょう。《娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ》。
ここでは、イスラエルの民に勝利と解放をもたらす、まことの王が来られるとの預言が語られています。注目したいのは、その王が軍馬に乗ってではなく、ろば――それも小さな子ろばに乗って来る、と語られているところです。反対に、神さまは都エルサレムから戦車と軍馬を絶つ、と語られています。
ろばに乗っているということは第一に、エルサレムに入城するその王が人々を上から支配する存在ではなく、低きところから――あるいは同じ地平から――人々に仕える、柔和で謙遜な方であることが示されています。次に、その王は、あらゆる武装を解除した、非軍事的な王であることが示されています。戦車と軍馬に象徴される力の支配によってではなく、ろばに象徴される柔和と謙遜と、徹底した非武装によって、諸国に平和をもたらす方であることが示されているのです。
子ろばに乗った救い主
子ろばに乗ってエルサレムに入城してくる王さま、このイメージは新約聖書ではなじみ深いものですよね。そう、イエス・キリストがエルサレムに入城される際、お乗りになっていたのが、ろばでした。福音書は、ゼカリヤ書の預言の成就として、まことの王・救い主であるイエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城するお姿を描いています。
マタイによる福音書21章4-9節《それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。/「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」/弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、/ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。/大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。/そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」》。
まことの王・救い主なるイエス・キリストは勇ましく軍馬に乗って来られたのではない。すべての武装を解除し、へりくだり、小さな子ろばに乗って来られた。武力によってではなく、柔和と謙遜、そして非暴力の貫徹によって、私たちの世界に平和をもたらすために来られた方であることを、ご一緒に心に留めたいと思います。
《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》
イエス・キリストが武力による解決(=戦争)を否定されていることは、先ほどお読みした次のマタイ福音書の言葉に最もはっきりと示されているでしょう。《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる》(26章52節)。イエスさまは大祭司たち捕らえられる際、剣を抜いてその手下に打ちかかった弟子を制止し、そうおっしゃいました。
イエスさまがそのように語っておられるにも拘わらず、これまでのキリスト教の歴史はどうだったでしょうか。また、いまの私たちの世界の現状はどうでしょうか。これまでのキリスト教の歴史は、武力による解決を是とした、戦争の歴史でもありました。またいまの私たちの世界においても、戦争や紛争は途絶えることがありません。いまも多数の人が武力による解決と力による支配を是とし、それが正義であると信じているからです。
力についての二つの言葉 ~force(フォース)とstrength(ストレングス)
キリスト教教育・保育とは何かを語った小見のぞみ先生の『非暴力の教育――今こそ、キリスト教教育を!』(日本キリスト教団出版局、2023年)という本があります。この本において小見先生はキリスト教教育の最も大切な特徴は《絶対非暴力・非支配》であると考えていると述べ、その教育を《非暴力の教育》と呼んでおられます(同、121頁)。
「非暴力」と言ったときに出てくる「力」について、小見先生は英語には二つの言葉があることを紹介されています。英語では《暴力や腕力、軍事力、武力、強制力などを表すときはforce(フォース)を使い、知力、精神力、抵抗力、影響力など強みや長所、よりどころとなる力にはstrength(ストレングス)を用いることができます》(同、122頁)。私たちが力を行使する場合、このforce(フォース)とstrength(ストレングス)の性格の違いがとても重要になってくることを述べておられます。
《キリスト教教育は、力を暴力(force)として用いることではなく、強さ(strength)として使う道を示します。わたしたちは、ひとりひとりが持つ偉大なパワーとエネルギーを、自分と他者を生き生きと生かすために使うよう教えることができます。知力も、精神力も、体力も、私たちがもっている力は、共感し、つながり合い、関わり合い、共に生きるために使うことができる。愛すること、平和なこと、すべて善いことのために、いくらでも力を使いましょう。子どもたちにも、若い人たちにも、そのような力の使い方を共有しましょう。イエスは人々をいやすためにご自分の力を用い、疎外された人に触れ、結びつきを回復されました。…》(同、123頁)。
小見先生はこの本において、イエスさまこそその力の使い方の私たちのお手本であること、イエスさまの言葉と振る舞い(生き方)こそが非暴力の教育のモデルであり目標であることを一貫して伝えておられます。
まずは自分の足元から ~少しでも、《絶対非暴力・非支配》のキリストの平和に近づく年に
私たちは常に、自分の力をforce(フォース)として誇示する誘惑にさらされています。自分の力を他者を支配する力として用いる誘惑、自他への暴力として用いる誘惑にさらされています。小見のぞみ先生はご著書において、私たちはそれら誤まった力の誘惑に陥らぬよう、いつも注意して祈り求めていなければならないことも付言しておられます。確かに、私たちは気が付けば、その誘惑に陥ってしまうものですね。
私たちの近くに遠くに、過った力の使い方をしてしまっている現状があります。私たち自身、そのように自分の力を誤った方向に用い、他者を傷つけ、自分を傷つけてしまうことがあるでしょう。新しい年の初め、今一度、子ろばに乗った救い主、平和の主イエス・キリストのお姿に私たちの心を向けたいと思います。
まず私たち自身が、自分の足元から、自分の身近なところから、平和を創り出してゆくことができますように。自分を大切にし、他者を大切にし、神さまを大切にするために、自分の力を使ってゆくことができますように。そしてこの2026年が、世界の過った力の行使が正され、少しでも、《絶対非暴力・非支配》のキリストの平和に近づく年となりますように願います。
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