2026年2月8日「福音の風穴を開ける」
2026年2月8日 花巻教会 主日礼拝説教
中風の人を癒やす
いまお読みしましたマルコによる福音書2章1-12節には、イエス・キリストが中風(ちゅうぶ)の人を癒やす場面が記されていました。中風とは、脳卒中(脳血管疾患)の後遺症によって、身体にしびれや麻痺が残っている状態を言います。ただし、マルコ福音書の原文では、「中風」と限定して記されている訳ではなく、聖書協会共同訳では《体の麻痺した人》と訳しています。いずれにしましても、ここで本日の物語に登場する人は、身体に何らかの麻痺があり、自在に体を動かすことが出来ない状態にあったようです。
当時の病いについての見方 ~罪に対する罰として
本日の聖書箇所をはじめ、福音書にはイエス・キリストが病いの人を癒やす場面がたくさん記されています。イエスさまが生前、ご自身の働きとして大切にしていらっしゃったのが、悪霊の追い出し(1月25日の礼拝メッセージを参照)と病いの癒やしでした。
悪霊の追い出しと病いの癒やしは、イエス・キリストが宣べ伝えた神の国の到来を見えるかたちで現わしているものだと受け止めることができます。病いの癒やしは神の国がいま到来し実現していることのしるしなのであり、だからこそイエスさまはその行為を重視されていたのですね。
本日の物語を改めて振り返るにあたって、まず、当時のパレスチナにおいて病いがどのように受け止められていたかを確認しておきたいと思います。イエスさまが生きておられた時代、病いは主として、《(一)個人の罪や徳とは無関係に自然界の物理的原因で生じる疾患と、(二)罪の罰、(三)穢れ、(四)悪霊によるもの》の四つの見方で見られていたそうです(本多峰子先生「イエスの癒やし――病、穢れ、悪霊憑きについての新約時代の見方とイエスによる癒しの救済的意味」、川中仁編『宗教と病 聖書的信仰の観点から』所収、リトン、2023年、99、100頁)。
現代の私たちは、もっぱら病気を(一)の《自然界の物理的原因で生じている》ものと受け止めています。対して、当時の人々は、それ以外の見方でも受け止めていたのですね。本日の物語に特に関わっているものは、(二)の罪に対する罰とする見方です。当時の人々は、病気は本人または両親や先祖が「罪」を犯した結果であると考えることもあったのです。
ここでの罪とは、律法に違反した罪のことを指しています。律法とは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)に記されている神の掟のことです。本人が自覚的にあるいは無自覚に、神の掟に違反した罪に対する罰として、病いが与えられるという受け止め方です。特に、重い病いを患ったとき、人々はそこに「神の怒り」を感じることがありました。《敬虔な人々ほど、病の攻撃に曝された時、これは自分の神に対する落ち度が招いたのではないかと恐れ、そして反省する》(並木浩一先生「旧約聖書の人々は病とどう差し向ったか」、同所収、18頁)。
たとえば、旧約聖書の詩編にはこのような詩があります。《主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。/あなたの矢はわたしを射抜き/御手はわたしを押さえつけています。/わたしの肉にはまともなところもありません/あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません/わたしが過ちを犯したからです。/わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています》(詩編38編2-5節)。
この詩編の文言にあるように、重い病いを患ったとき、それは自分の罪に対する罰であり、激しい神の怒りにさらされていると感じることがあったのです。その罪の意識(罪悪感)は、先ほど引用した文章に合った通り、律法を遵守しようとする敬虔な人ほど、強いものであったでしょう。敬虔な人ほど、「神の前に大変な罪を犯したに違いない」と自分を責め苛むからです。この詩編では神の怒りとその罰を「矢で射抜かれる」イメージで表現していますが、まさに神の怒りの矢に撃たれた、そのような激しい衝撃をもって、重篤な病いを経験することがあったことが伺われます。本日の物語に登場する中風の人も病いを神からの罰として受け止め、罪の意識の重荷に苦しんでいたかもしれません。
いまを生きる私たちは、病いを律法違反の罪に対する神の罰としては受け止めていません。けれども、病いを患ったとき、あるいは何か不運な出来事に見舞われた時、「自分が何かの罰を受けているのではないか」と感じることはあるのではないでしょうか。正しい道を歩もうと思っていらっしゃる方ほど、そのような罪の意識に苦しめられることもあるのだと思います。その意味で、先程の詩編の言葉も私たちと無関係のものではなく、いまも私たちに切実な言葉として迫ってくるものであると思います。
イエスさまがおられるところを目指して
では、イエス・キリスト御自身は病いをどのように受け止めておられたのでしょうか。福音書全体を読んで言えることは、イエス・キリスト御自身は、病いを「罪に対する罰」とする見方を否定しておられるということです(参照:本多峰子先生、前掲書、113頁)。イエスさまはそもそも、病いを罪と結びつけて受け止めてはおられません。病いが罪や悪行に対する罰であるということは決してあり得ないし、イエスさまご自身がそのことをはっきりと否定しておられることをご一緒に心に留めておきたいと思います。
そのことを心に留めた上で、改めて本日の物語を振り返ってみましょう。その日、イエスさまはガリラヤのカファルナウムという町のある家におられました。イエスさまが家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まってきました。大勢の人が集まり、戸口の辺りまですきまがないほどになりました(2章1、2節)。
イエスさまが御言葉を語っておられると、驚くような出来事が起こりました。4人の男性が家の屋根をはがして穴を空け、そこから床に寝ている中風の人をつり降ろしたのです(4節)。イエスさまの話を聞いていた人々は何事かとびっくりしたことでしょう。
屋根をはがしてつり降ろすというのはやりすぎだという意見もあるかもしれません。なぜ人々の後ろで、会える機会が来るのを待たなかったのか、という意見もあることでしょう。
けれども、中風の人と彼を運ぶ4人の男性にしてみれば、おそらくそれは、懸命なる行動であったのだと思います。大勢の人の後ろでおとなしく待っていても、きっとイエスさまに会うことはできない。自分たちから行動を起こさなければ、イエスさまの前には出られない、という切なる想いがあったのではないかと推測します。
先ほど、当時は病いを神からの罰として受け止めることがあったとお話ししました。もしかしたら中風の人と彼と近しい関係である4人も、周囲の人々から「罪人」とみなされてしまっていたのかもしれません。病いの苦しみはもちろん、そのように共同体から疎外されてしまっていることが、激しい苦痛として感じられていたのではないでしょうか。
「罪人」である自分たちに、誰も道を開けてはくれない。誰も自分たちの悲痛な声に耳を傾けてくれない。イエスさまがおられる家の前まで来た時、目の前にいる大勢の人々が、彼らにとって大きな壁となって見えたかもしれません。
しかし、その日、彼らはあきらめませんでした。大勢の人に阻まれて家の中に入れないなら、屋根に上って、屋根をはいで病人を降ろそう、と決めたのです。彼らが指していたのはただ一つ、イエスさまのおられるところでした。このお方だけは自分たちの想いを分かってくださる、自分たちの訴えに耳を傾けて、助けてくださるという確信があったのではないでしょうか。4人の男性は屋根に上り、イエスさまがおられる辺りの屋根を剥がして、その穴から床に横たわっている病人をつり降ろしました。超えられないような壁を乗り越え、中風を患う人はついにイエスさまご自身に出会うことができました。
「子よ、あなたは罪の世界から解き放たれる」
イエスさまは彼らの信仰(信頼)をご覧になり、中風の人に《子よ、あなたの罪は赦される》(5節)とおっしゃいました。罪の赦しを宣言されたのです。
ただし、ここでイエスさまが何をおっしゃろうとしているのかは自明のことではありません。先ほど述べましたように、イエスさまはそもそも、病いを罪と結びつけて受け止めてはおられないからです。様々な解釈が可能な言葉ですが、本日はこの言葉を「子よ、あなたは罪の世界から解き放たれる」という意味で受け止めてみたいと思います。病いを罪に対する罰と捉える、従来の世界の在り方からの解放です。イエスさまはここで、まったく新しい世界の在り方を提示してくださっています。それは、神の国という新しい世界の在り方です。イエスさまは神の国の権威に基づいて、この解放の言葉を宣言してくださいました。
当時の罪とは、具体的には律法違反の罪であると述べました。本人、両親、先祖が代々犯してきた律法違反の罪の集まりが、ここでの罪(複数形)です。神の国という新しい世界の到来を前に、それらの罪はもはや力を失っている、とイエスさまは宣言なさいました。
この宣言が意味していることは、神の国においては、病いは、もはや罪とは何ら関係がないということです。私たちが病いになるのは、私たちが罪を犯したからでも、両親や先祖が罪を犯したからでもない(ヨハネによる福音書9章1-3節)。私たちの病いは、罪や罰とは何ら関係がない――イエスさまの言葉は、その宣言であると受け止めることができます。
あなたは生まれながらの「罪人」ではない。そのようなことは決してない。では、あなたはいったい何者か。あなたは、神さまの目から見て、かけがえなく、貴い存在である(イザヤ書43章4節)。あなたは、生まれながらの、神の愛する子どもである。
イエスさまは、中風の人に向かって、神さまからのこの真実の“声”――福音――を伝えてくださいました。中風の人はこの瞬間、呪縛から解き放たれました。中風の人の人生を長い間縛り続けてきた誤解がほどかれました。私たちは「罪人」として生まれ、罰を受け続けていたのではありませんでした。私たちは、神さまの大切な子どもたちとして生まれ、極めて「良い」存在として、祝福を受け続けてきたのです。それが、この世界のまことの姿です。この真実を知らされたいまこの時、中風の人の足元に、神の国の光が到来しました。そしてこの真実はいまこの時、イエスさまを通して、私たち一人ひとりにも知らされています。
神の国の到来と病いの癒やし
その後、物語ではイエスさまとその場にいた律法学者との問答が始まります。律法学者とは、聖書に精通した、律法の専門家です。この問答の部分について本日は詳しく説明することはできませんが、この問答部は、イエスさまが新しく指し示すこの神の国の福音の権威と、従来の律法の権威とが初めてぶつかった出来事であったと言えるでしょう。本日はいまだ、少し火花が散った程度であったかもしれません。けれども、この後、イエスさまに対する律法学者たちの敵意は激しさを増してゆくことになります。
問答の後、イエスさまは改めて、中風の人におっしゃいます。《わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい》(11節)。すると男性はその言葉の通り、起き上がり、床を担いで皆の見ている前を出て行きました。人々は驚き、《このようなことは、今まで見たことがない》(12節)と言って、神を賛美しました。
神の国の到来に、付随的に起こったのが、病いの癒しの出来事です。ここでは、神の国の到来によって彼の存在がどのように変えられたのかが、目に見えるかたちで示されています。
神の国と出会って、彼は自分で起き上がり、自分で床を担いで家に帰ることができるようになりました。この姿が象徴しているのは、彼に神さまからの尊厳が取り戻され、その主体性が回復された、ということなのだと思います。そして大切なのは、彼に与えられている尊厳の光が、周囲の人々にはっきりと認識された、ということです。今まで自分たちが「罪人」だとみなして軽んじていたその人が、一人の人格をもった、貴い存在として新しく現れ出た。その場にいた人々は皆、その真実の証人となりました。
大切なことは、癒やしが起こること自体ではなく、神さまの真実に出会い、私たちが互いを尊い存在として受け止め合ってゆくようになることです。その時、私たちの社会全体が少しずつ変わり始めることでしょう。たとえ病いの癒しは起こらなくても、私たちが生きる社会全体に癒やしが起こり始めることでしょう。
福音の風穴を開ける
本日の物語では、中風の人と4人の男性がまず、勇気を出して、社会に一つの風穴を開けました。屋根に空けた穴は、その象徴となったということができます。その風穴の向こうには、イエスさまご自身がおられました。その風穴から、イエスさまは神の国の力を示してくださいました。神さまの真実の“声”――福音を人々の間に響き渡らせてくださいました。
私たちが、イエスさまが伝えてくださる神さまのまことの声に出会い、互いをかけがえなく貴い存在として受け止め合ってゆくことができますようにと願います。どうぞ私たちが神の国の力を信頼し、停滞したこの社会に福音の風穴を開けてゆくべく、共に勇気をもってその一歩を踏み出してゆくことができますように。
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