2026年5月3日「イエスはまことのぶどうの木」
2026年5月3日 花巻教会 主日礼拝説教
「イエスはまことのぶどうの木」
大槌町山林火災
4月22日に発生した大槌町の山林火災について、懸命な消火活動と降水により、これ以上延焼の恐れがなくなったとして、昨日鎮圧が宣言されました。発生より11日目でした。皆さんも大変心配しながらニュースをご覧になっていたことと思います。一昨日の5月1日からは、休校になっていた町内の小中高校も通常通りの学校生活が再開。町民の方々も少しずつ日常生活を取り戻し始めています。
この度の火災によって焼損した面積は、約1633ヘクタール。昨年2月に大船渡市で発生した山林火災に次いで、平成以降2番目の規模であるとのことです。全焼した住宅も8棟あります。被災した方々の上に神さまのお支えがありますよう、住民の皆様の安全と生活が守られますよう、引き続きご一緒にお祈りに覚えたいと思います。
2026年度年間主題聖句
先週4月26日(日)の礼拝後、2026年度の教会総会を開催しました。この新しい年度も共に祈り合い、支え合いながら歩んでゆきたいと思います。
年間主題聖句として、昨年に引き続き、創世記1章31節を選びました。《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である》。神がこの世界を造られたとき、ご自分がお造りになったすべてのものをご覧になり、《極めて良かった》とおっしゃいました。神さまのこの「良い」という祝福の声は、いまも私たち一人ひとりを包んでいます。
私たちがいま生きている社会はますます、自尊心を育みづらい社会となっています。聞こえてくるのは、むしろ自分や他者を「悪い」ものとして裁こうとする声、攻撃しようとする声です。私たちの社会ではいま、「良い」という声が見失われているように思います。そのような中にあって、「私たち一人ひとりが良い存在である」という聖書のメッセージを今一度ご一緒に思い起こしたいと思います。
一人ひとりの存在が極めて「良い」ものとして尊重される社会を目指して、これからもご一緒に祈りを合わせてゆきましょう。
イエスはまことのぶどうの木
先ほどご一緒に本日の聖書箇所ヨハネによる福音書15章1-11節をお読みしました。《わたしはまことのぶどうの木》(1節)という言葉で始まる、よく知られたイエス・キリストの言葉の一つです。ここではイエス・キリストは「ぶどうの木」であると語られ、私たちはその「枝」であると語られています。
ぶどうはパレスチナにおいて古くから栽培されており、聖書に登場する代表的な植物の一つです。私達の住む花巻でもぶどうが栽培されていますね。早池峰山の麓で栽培されているぶどうからは、ワインも作られています。皆さんもよくご存じの通り、ぶどうはつる性の植物です。主となる幹があり、そこから四方にたくさんの枝が伸びてゆきます。その枝から葉が生い茂り、時が来るとたくさんの実を実らせます。
本日の聖書箇所では、イエス・キリストが木の幹であること、私たち一人ひとりはその幹とつながる枝であることが語られています。《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ》(5節)。幹であるイエスさまにつながっていることにより、私たちは時が来ると豊かに実を結ぶことができるのだ、と。
愛に「とどまる」ことの大切さ
このぶどうの木のイメージを通して、イエスさまが私たちに伝えてくださっていること、それは、「愛にとどまる」ことの大切さです。続く9節には、次の言葉があります。《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい》。
ここでの「父」は、神さまのことです。神さまが神の独り子であるイエスさまを愛されたように、イエスさまも私たちを愛してくださっている。このイエスさまの愛にとどまっていることの大切さが語られています。ぶどうの枝が幹から離れないでしっかりとつながっているように、いつもキリストの愛にとどまっていること。イエスさまはぶどうの木のイメージを通してそのことの大切さを伝えてくださっているのですね。
ぶどうの木に「つながる」ことと、愛に「とどまる」こと。ヨハネ福音書の原文では、同じ動詞が使われれています。メノ-というギリシャ語です。このメノ-は、ヨハネ福音書において重要な意味を持つ言葉の一つです。ヨハネ福音書では40回使用されています。私たちが礼拝に用いている新共同訳聖書は、ある場面ではこのメノ-を「つながる」と訳し、ある場面では「とどまる」、またある場面では「泊まる(宿泊する)」(1章38、39節)等と訳し分けているのですね。全部同じ言葉であることを示すためには、すべて「とどまる」と統一して訳すのも良いかもしれません。
この「とどまる」という言葉が表しているのは、先ほど述べましたように、愛に「とどまる」ことです。神の愛、キリストの愛の内にいつもとどまり、結ばれていること。愛にとどまることの大切さを、イエスさまはぶどうの木のイメージを用いて、とても分かりやすく私たちに示してくださっています。
共に生かされ、支えられ
スク―リンに映していますのは、以前私が描いたぶどうの木の絵です。ぶどうの木の幹を十字架の形にしています。この絵では、ぶどうの幹は下から、枝葉とぶどうの実を支えています。下から枝葉を支え、大地の水分や養分を根から吸い上げ、枝葉に送っています。一つひとつの枝は日々、幹に支えられ、育まれています。私たちもまたそのように、キリストの愛に共に結ばれ、生かされ、支えられている存在であるという想いを込めています。
改めて、聖書が語る愛とは、どのようなものでしょうか。私なりに表現すると、「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にすること」です。イエスさまは私たちの存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしてくださるゆえに、十字架の上でその命をささげてくださいました。それほどまでに、イエスさまは私たちを愛してくださっていることを聖書は伝えています。
この十字架のキリストの愛の内で、私たちは一人ひとり、かけがえのない、替わりがきかない存在とされています。神さまの目から見て、価高く、貴い存在(イザヤ書43章4節)とされています。私たちは一人ひとり、この愛の中で、共に生かされ、支えられています。この愛にとどまることの大切さを、本日はご一緒に心に留めたいと思います。
《互いに愛し合いなさい》 ~互いを尊重し大切にすること
イエスさまが私たちを重んじてくださったように、私たちも互いを重んじ合うこと。それが、イエスさまが私たちに与えてくださった《互いに愛し合いなさい》という掟ですです。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》(13章34節)。
本日の聖書箇所でも、この掟について述べられていましたね。《わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる》(15章10節)。「互いに愛し合う」掟を守ることが、イエスさまの愛にとどまることにつながるのだと語られています。互いを尊重し大切にすることが、キリストの愛にとどまっていることになるということも、心に留めたいと思います。
イエスの愛しておられた弟子
本日はご一緒に「イエスはまことのぶどうの木」の箇所を読みました。愛にとどまること、その大切さをぶどうの木のイメージで分かりやすく、豊かに伝えてくれている箇所でした。ヨハネによる福音書ではもう一つ、愛にとどまることを表しているイメージがあります。イエスさまの胸によりかかる「イエスの愛しておられた弟子」のイメージです。
ヨハネ福音書では、最後の晩餐の場面でこのような記述があります。イエスさまが食事の席で弟子たちの足を洗われた後のことです。《イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」/弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。/イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。/シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。/その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、/イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった》(13章21-26節)。
最後の晩餐の席上で、イエスさまがユダが裏切ることを告げる、有名な場面ですね。ヨハネ福音書ではこの場面に、イエスさまの胸によりかかる弟子の姿が描かれています。「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれる弟子です。この弟子が、「主よ、裏切るのは誰ですか」と尋ねたのですね。ヨハネ福音書において、イエスさまの胸によりかかるこの弟子の姿が、キリストの愛に「とどまる」ことを表すもう一つのイメージであると私は受け止めています。
この弟子はその後も何度かヨハネ福音書に登場します(19章26節、20章2節、21章7、20節)が、名前は記されず、「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれます。ですのでこの愛弟子が誰を指しているのか不明です。伝統的には12弟子の一人の使徒ヨハネだとされてきましたが(20章24節も参照)、はっきりとしたことは分かりません。
ヨハネ福音書は最後、ペトロとこの愛弟子が登場して終わります。イエスさまから新たに、羊を牧する使命を託されたペトロ。彼が振り向くと、「イエスの愛しておられた弟子」がついてくるのが見えます。《ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。/イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」/それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである》(20章21-23節)。
イエスさまは愛弟子について、《わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか》とペトロに語られました。ここで「生きている」と訳されている語も、原文ではメノ-という動詞です。ですのでこの言葉は、「わたしの来るときまで彼が『とどまる』ことを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と訳すこともできます。
イエスさまは愛弟子について、いつまでも「死なない」と言ったのではなく、いつまでも「とどまる」とおっしゃったのです。イエスさまがこの世界に再び来られるその時まで、とどまり続ける。では、どこにとどまるのか、それはこれまでお話してきたように、キリストの愛の内に、です。彼/彼女は、いつも、いつまでも、キリストの愛の内にとどまり続ける。イエスさまの胸に抱かれる愛弟子の姿は、そのことを表しています。
一人ひとりが、イエスさまに愛された弟子
イエスさまの胸に抱かれる愛弟子。イエスさまがこの世界に再び来られる時まで、愛の内にとどまり続ける愛弟子――。この神秘的な存在の弟子は、わたしたちとは違う、特別な人なのでしょうか。イエスさまの胸によりかかることがゆるされた、唯一の存在なのでしょうか。いいえ、そうではありません。ヨハネ福音書は、私たち一人ひとりが「愛された弟子」なのだというメッセージを込めて、この弟子を登場させているのだと本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。私たち一人ひとりが、イエスさまに愛された弟子なのだ、と。名前をあえて記していないことも、その理由の一つなのかもしれません。
イエスさまの胸の内で、その愛の内で、私たち一人ひとりが、かけがえのない、替わりがきかない存在とされています。神さまの目から見て、価高く、貴い存在とされています。私たちは一人ひとり、「愛された弟子」として、共にこの愛に結ばれています。どんなものも、この愛から私たちを引き離すことはできません。
イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にすることができますように。イエスさまの愛の掟を胸に、この新しい年度もご一緒に歩んでゆきたいと願います。
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