2026年5月17日「イエス・キリストの祈り」
2026年5月17日 花巻教会 主日礼拝説教
「イエス・キリストの祈り」
昇天日
来週5月24日(日)はペンテコステ(聖霊降臨)の出来事を記念して礼拝をおささげします。ペンテコステは弟子たちのもとに聖霊(神の霊)が降ったことを記念する日です。ペンテコステはクリスマスやイースターに比べると日本では知られていませんが、キリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで重要な祭日です。
このペンテコステの10日前に、教会の暦で「昇天日」というものがあります。今年は先週の5月14日(木)が昇天日でした。昇天とは、十字架の死より復活されたイエス・キリストが天に昇られた出来事のことを言います。福音書は、復活のキリストが弟子たちと再会を果たした後、神さまのいる天へと挙げられたことを記します(昇天のキリストは特にルカによる福音書が重点的に記述)。私たちが礼拝の中で読んでいる使徒信条では、《天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり》と告白している部分がそれに該当します。
イエスさまは天に昇られるにあたって、次の約束の言葉を弟子たちに残してくださいました。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい》(ルカによる福音書24章49節)。《約束されたもの》とは聖霊のことです。この約束通り、天から弟子たちのもとに聖霊が送られた出来事がペンテコステです。
ちなみに、同じ読み方の言葉として「召天」がありますが、教会では、人が亡くなって天に召されることを召天、イエス・キリストが天に上げられたことを昇天と表記して区別をしています。
イエス・キリストの執り成しの祈り
昇天日とペンテコステについてお話をしました。天に昇り、神さまの右に座しておられるイエス・キリストが、弟子たちのもとに聖霊を送ってくださるということについてお話しました。昇天し神の右に座しておられるイエスさまがしてくださっていることがもう一つあります。それは、私たちのために祈ってくださっているということです。イエスさまはいまも、天上で、執り成しの祈りをささげてくださっているのだと教会は信じ続けてきました。
執り成しの祈りとは、自分以外の誰かのための祈りのことを言います。その人に代わって、神さまに祈ることです。礼拝の中でも、司式者の方が執り成しの祈りをしてくださっていますね。聖書は、他ならぬイエスさまご自身が、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださったことを記しています。
福音書を読みますと、祈るイエスさまのお姿が繰り返し出てきます。たとえば、マルコによる福音書の記述、《朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた》(1章35節)。イエスさまは毎朝、まだ暗いうちに起きて、お一人で祈りをささげられていたことが伺われます。イエスさまはその祈りの中で、ご自身のためだけではなく、弟子たちのため、すべての人のため、この世界のために祈りをささげてくださっていたことでしょう。
ルカによる福音書には、弟子のペトロに対する次のイエスさまの言葉が記されています。《わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい》(22章32節)。ペトロはこの先、イエスさまが捕らえられて裁判にかけられた時、イエスさまのことを三度「知らない」と否定してしまうこととなります。イエスさまはそのことをご存知の上で、ペトロに信仰が無くならないように、再び立ち上がることができるように、執り成しの祈りをささげてくださいました。
このように、イエスさまは生前、人々のために祈り続けてくださいました。そして天に昇られた後も、私たちのために祈り続けてくださっているのだと私たち教会は信じ続けてきました。少し難しい言葉で言いますと、「仲介者(仲保者)」として、イエスさまは天上でいまも私たちのために執り成し続けてくださっているのだ、と。
イエス・キリストの最後の祈り
メッセージの冒頭で、本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書17章1-13節をお読みしました。このヨハネによる福音書17章は新約聖書に記されたイエス・キリストの代表的な祈りの一つです。これはイエスさまが十字架におかかりになる前にささげられた祈りであり、イエスさまが私たちのためにささげてくださった最後の祈りの一つであると言えます。伝統的に「大祭司の祈り」とも呼ばれます。
11節には次の言葉がありました。《わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです》。
イエスさまの地上での生活はもう間もなく、終わりを迎えることになる。その別れを前にして、残される弟子たちのために、そしてこの地に生きるすべての者のためにささげてくださったのが、この執り成しの祈りです。
一致への祈り
この祈りの中で、イエスさまは様々なことをお祈りくださっています。ここでイエスさまが祈ってくださった大切な祈りの一つに、「一致への祈り」があります。先ほどお読みした11節の後半部にも《聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです》とありました。残された者たちが、私たちすべての者が、「一つとなるため」の祈りをイエスさまはささげてくださっています。
祈りの後半の17章20-21節には次の言葉もあります。《また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。/父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください》。
イエスさまは、この先、教会の内外で様々な対立や分裂が生じるであろうことをご存知でいらっしゃったでしょう。だからこそ、ここで私たちすべての者のために祈ってくださっているのではないでしょうか。神さまとイエスさまが一つであるように、私たち人類もいつか、一つとなることができるように、と。
キリスト教の歴史とは、教会分裂の歴史でもありました。現在、キリスト教には様々な教派が存在しています。教派が数多くあるということは、それだけ分裂を繰り返してきたということの証でもあります。
教会が分裂すること自体は、必ずしも否定的に受け止めるべきことではありません。分裂の結果、さまざまな教派や教会が生まれ出ることができたのであり、そこにはかけがえのない意義があります。
悲しむべきことは、その過程の中で、時にキリスト者が互いに憎み合い、敵対し合うことをくり返してきたことです。その憎悪と対立は、時に内外の政治的な利害関係とも結び付き、戦争を引き起こすなどの大きな惨禍をもたらすことにもなりました。キリスト教の歴史が戦争の歴史と切っても切り離せない関係にあることは、皆さんもよくご存じの通りです。これまでのキリスト教の歴史において、まことの一致は成し遂げられず、むしろ無数の争いが繰り返されてきました。
「教会はキリストの体」
先ほど礼拝の中で読んでいただいたエフェソの信徒への手紙1章23節に《教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です》という言葉がありました。新約聖書は、「教会はキリストの体」であると表現しています。この言葉を踏まえますと、教会の対立は、その一つなるキリストの体が引き裂かれることを意味します。キリスト教の歴史は、キリスト者が互いに敵対し対立し合うことによって、キリストの体が引き裂かれて行った歴史でもありました。
イエスさまはそのような私たちのために、十字架におかかりになる前に、一致への祈りをささげてくださいました。そしていまも、天上で、私たちが一つとなることができるように、祈り続けてくださっていることをご一緒に心に留めたいと思います。
アジア・エキュメニカル週間
本日5月17日(日)から23日(土)まで、「アジア・エキュメニカル週間」です。アジアの諸教会、諸教派を覚えて祈る期間です。
「エキュメニカル」という言葉を初めて聞いた方もいらっしゃるかもしれません。エキュメニカルは教会の一致を意味する言葉で、エキュメニズムとも呼ばれます。エキュメニズムとは「教会間に再び一致を取り戻そうとする理念・運動」のことで、教会は本来、一つのキリストの体であるとする信仰を土台としています。先ほどのエフェソの信徒への手紙で語られていた「キリストの体」の表現を踏まえれば、エキュメニズムは引き裂かれたキリストの体を再び一つにする運動だと言えるでしょう。
「違いがありつつ、ひとつ」である在り方
ここでの一致とは、違いをなくしてみんなが「同じになる」ことを意味するものではありません。違いはありつつ、同時に、一つに結び合わされているという意味での一致です。
エキュメニカル運動の前提となっているのは、教会の「多数性」です。各個教会、諸教派の間には違いがあり、その違いを尊重しつつ、一致を目指してゆくことがエキュメニカル運動において欠かせない要素です。スローガン的に用いられている言葉を使えば、「多様性における一致(unity in diversity)」と言われます。私なりに表現すれば、「違いがありつつ、ひとつ」である在り方です。
新約聖書の手紙は、それをやはり体のイメージで表現しています(ローマの信徒への手紙12章4、5節、コリントの信徒への手紙一12章12-27節、エフェソの信徒への手紙4章12-16節など)。体の各部分がそれぞれに異なった働きをしつつ、一つに結び合わされているように、私たちも違いがありつつ、キリストの体に一つに結び合わされている。私たちはキリストの体の部分として、それぞれがかけがえのない役割を果たしながら、互いに補い合っている。そのようにして私たちは共に一つのキリストの体を造り上げているのだと聖書は語ります。
ですので、自分とは異なる相手に対して、「あなたも自分と同じになれ」と同調を強いるやり方では、私たちはまことに《一つ》になることはできません。神さまが私たち一人ひとりに与えてくださっている違いが損なわれてしまうからです。また、自分たちとは異なる相手に対して、「あなたはいらない」と排除することでも、私たちは当然ながら、《一つ》になることはできません(コリントの信徒への手紙一12章21節)。神さまの目に価高い一人ひとりが軽んじられてしまっているからです。
違いがあること自体は、素晴らしいことです。違いがあることを、否定的に受け止める必要はありません。その違いとは、他ならぬ、神さまが与えてくださったものだからです。問題であるのは、それらの違いを受け入れることができず、互いに憎み合い敵対し合うこと。そうして、相手に無理に同調を強いる、あるいは相手を排除しようとするその姿勢です。
イエス・キリストの祈りに私たちの祈りを合わせて
私たちはそれぞれが、かけがえのない役割を果たしながら、互いに補い合っている関係性にある――。これが神の目から見た私たちのまことの関係性であることをご一緒に心に留めたいと思います。私たち教会が、私たち一人ひとりが、このことを思い起こし、互いの違いを受け入れ合い、補い合い支え合って、共に生きていこうとするとき、引き裂かれたキリストの体は再び一つに結び合わされてゆくのだと信じています。
《また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。/父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください》――。
イエス・キリストは生前、その最期の祈りにおいて、私たちの和解と一致のために祈ってくださいました。そしていまも、天の神の右の座で、祈り続けてくださっています。このイエス・キリストの祈りに、私たちの祈りを合わせたいと願います。
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