2026年3月29日「十字架への道」

2026322日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書152141

十字架への道 

 

 

 

受難週

 

私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。今週は受難節の最後の週の受難週に当たります。木曜日には洗足木曜日礼拝を行います。ご都合の宜しい方はどうぞご参加ください。そして45日(日)、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝をおささげします。今年は新年度の最初の礼拝がイースターということになりますね。

 

 

 

十字架の場面

 

本日の聖書箇所マルコによる福音書152141節は、イエス・キリストが十字架の上で亡くなる場面です。この場面は、マルコによる福音書において、最も重要な意味を持つ場面だと言えるでしょう。

 

イエス・キリストが十字架に磔にされたのは、午前9時であったとマルコ福音書は記します25節)。時刻が記されているということは、イエス・キリストの十字架が単なる物語ではなく、私たちの歴史に事実として起こったことであることを、改めて私たちに想起させます。

イエスさまはその6時間後の午後の3時に息を引き取られました。6時間もの間、イエスさまは十字架の上で苦しみ続けられたということになります(それでも十字架刑としては、短い時間であったようです)。

 

3時間が経過した昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時まで続いたとマルコ福音書は記します33節)。その暗さとは、天候の悪化による暗さではありません。その暗さとは、私たちが生きているこの世界から光が失われてゆくような暗さです。

 

イエスさまは十字架に磔にされてから、口をつぐみ続けておられました。すさまじい肉体の苦痛に伴う喘ぎ声は当然出されていたでしょうが、明確な言葉は発されることはなかった。そのような中でマルコ福音書は、息を引き取られる午後3時に、イエスさまが言葉を発されたことを記しています34節)。それは《エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ》という叫びでした。《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味の言葉です。

 

 

 

絶望の叫びとして

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》。これがイエス・キリストの最期の言葉であるということは、私たちに衝撃を与えます。このイエスさまの叫びをどのように受けとめたらよいのか戸惑いを覚える方もいらっしゃることでしょう。

 

受け止め方には人によって相違があります。このイエスさまの叫びは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の詩編22編の冒頭と同じ言葉です。詩編22編は《わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか》という言葉で始まります(詩編222節)。詩編22編はそのように深い失望の言葉から始まりますが、最後には神への信頼の言葉をもって終わります。このことから、イエスさまは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という詩編22編の冒頭を引用することによって、最後まで失われなかった神への信頼を告白したのだ、という解釈もあります。

 

一つの解釈だけが正しいということはないでしょう。私たちはこのイエスさまの十字架の死の場面から様々なメッセージを汲み取ることができます。本日は、《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》というイエスさまの叫びを、それが意味する通りの言葉、「自分は見捨てられた」という絶望の叫びの言葉として、ご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

 

 

精神的な苦痛の極みを

 

マルコによる福音書は十字架に磔にされたイエスさまを、女性たちが遠くから見守っていたことを記しています4041節)12弟子は皆逃げ去ってしまいましたが、女性の弟子たちはそうではなかった。彼女たちは最期までつき従っていました。女性たちがたとえ遠くからでも見守っていたということは、イエスさまはすべての人から見捨てられたわけではないということになります。

 

またそして、マルコ福音書は、死んで墓に葬られたイエスさまが三日目によみがえられたことを記しています16章)。神によって復活させられたということは、イエスさまは神ご自身から見捨てられたわけではなかったことになります。

 

福音書を読む私たちはその真実を知っています。けれども、十字架に磔にされたイエスさまご自身はそうではなかったのではないか。このとき、イエスさまご自身は、神と人から「見捨てられた」とお感じになったのだとしたら、どうでしょうか。

十字架の上で絶望するイエスさまの目からは、もはや自分を見守る存在は見えない。イエスさまはただ独り、隔絶された場所に追いやられていた。愛する人々も、父なる神も、十字架の上においては一切不在であった。薄れゆく意識の中で、イエスさまの耳に聴こえるものと言えば、自分を嘲笑し侮辱する人々の声だけであった。

 

このときのイエスさまの内面というのは、極限にまで追い込まれた精神状態と言えるかもしれません。しかし、イエスさまはその精神状態を経験されたのです。神の子である方が、まったき一人の人間となって、身体的な激しい苦痛のみならず、私たちが経験する精神的な苦痛の極みを経験されたのだとしたら、どうでしょうか。

 

 

 

十字架への道 ~神の子としての視点を失ってゆく道行き

 

 この十字架上のイエスさまのお姿が、それまで福音書に描かれきたイエスさまのお姿とあまりに異なっているように感じられる方もいらっしゃるかもしれません。たとえば、マルコ福音書8章では、フィリポ・カイサリア地方への旅の途中、イエスさまは弟子たちにすでにこのようにおっしゃっていました。《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている831節)

ここではイエスさまは、ご自分が十字架にはりつけにされること、三日目に復活することも、ご存知です。神のご計画のすべてをご存知でいらっしゃるこのイエスさまのお姿と、十字架上で絶望して息を引き取られたイエスさまのお姿とは、あまりに乖離があるように思えます。

 

聖書はイエス・キリストが「神の子」であると証します。神の子でいらっしゃるということは、この世界を神の視点でご覧になることができるということです。天の神の視点でこの世界の有り様を隈なく見ることができ、この世界で起こる出来事一つひとつの意味を理解し、ご存知でおられる方、それが神の子です。イエスさまは神の国を宣べ伝える旅の道中において、この神の子の眼差しをもってこの世界を、一人ひとりを見つめておられたことでしょう。

けれども、ご生涯の最期の十字架への道において、イエスさまはこの神の子の視点を失ってゆかれた。イエスさまの十字架への道とは、イエスさまが神の子としての視点を失ってゆく道行きでもあるのだと、本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。

 

私たちは日々の生活において、自分を客観視することができない状況に陥ることがよくあります。視野が狭まり、自分を俯瞰して見ることが出来ず、困難な状況のただ中にいる時というのは、本当に辛いものですよね。一方、そんな自分の状況を俯瞰的に見る第三の視点を持つことが出来た時、私たちはフッと解放され、楽になります。

そのような私たちの第三の視点よりはるかに高い次元から、天の神さまの視点から、イエスさまは生前、この世界を見つめていらっしゃったことでしょう。しかし、イエスさまはご生涯の最期に、その神の視点を失われた。いや、祈りの中で、自ら放棄することに同意された。それが、ゲッセマネでの祈りの場面143242節)であったと私は受け止めています。

 

そうして、その状態で、十字架の道を歩んでゆかれた。私たちが俯瞰する視点を得て楽になるのとは反対に、神の子の俯瞰する視点を放棄した状態で、イエスさまは苦難のただ中に突入してゆかれたのです。なぜでしょうか。それは、私たちとまったく同じ人間、一人の人間となるためです。そしてそのことを通して、私たちと一つとなるためです。

 

 

 

苦難と死の意味をも見失い

 

 イエスさまは十字架の道を歩み続けられ、そして遂に十字架の上で、神の子の視点を完全に失われました。すべての意味が失われた、恐ろしい闇の中に投げ込まれました。

 

 それまでのイエスさまは、すべてのことに意味があることを分かっていらっしゃいました。しかしその時、視野が極みまで狭くなり、ものごとの一切の意味が見失われてゆきました。神の国の福音を宣べ伝えてきた意味も、そして、ご自分の受難と十字架の意味すらも――。

 

 困難のただ中で、私たちはこの自分の苦しみには意味があると思えた時、慰めを得ます。反対に、自分のいまの苦しみにも、その先に待っている死にも、何の意味を見出せないとしたら、私たちにとってこれほど苦しく、絶望的なことはないでしょう。イエスさまはその恐ろしい虚無の暗闇を経験されました。

そうして最後に、イエスさまは叫ばれました。《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》。神と人から断絶され、すべての意味を見失った暗闇の中で――。この時、神の子であるイエスさまは完全なる人の子、一人の人間になられました。

 

もちろん、私たち教会はイエスさまの死を無意味な死とは見なしてはおりません。その死を通して、私たちの罪がゆるされ、私たち一人ひとりに新しい命を与えられたという信仰をもっています。イエスさまのご受難と十字架は、他ならぬ、私たちのためであると――。けれども、イエスさまご自身は、十字架上において、ご自分の苦難と死の意味をも見失った中で、息を引き取られたのだと私は受け止めています。

 

イエスさまは、私たち人間にとって最も苦痛な最期を経験してくださいました。そしてその苦しみを通して、私たちとすべての者の苦しみと結び合わさってくださいました。それほどまでして、イエスさまは私たちと一つとなろうとしてくださいました。

 

 

 

《本当に、この人は神の子だった》

 

イエスさまがこの悲惨な最期を遂げられた時、それを見たローマの百人隊長が《本当に、この人は神の子だった39節)と述べました。この百人隊長の言葉は、マルコ福音書を記したマルコ自身の信仰告白でもあります。

「見捨てられた」と叫んで亡くなったイエス。自分の人生の意味、死の意味をも見失って亡くなったイエス。救いがない、悲惨な死を遂げられたイエス。この十字架のキリストこそ、神の子であるのだとマルコ福音書は証します。

 

私たちは生きてゆく中で、暗闇のただ中に放り出されたような心境になることがあります。周囲の人から「見捨てられた」と感じることもあるでしょう。愛する存在から「拒絶された」と感じることもあるでしょう。人生の意味を見失う経験をすることもあるでしょう。意味が不明な死に直面することもあります。愛する人の死は、私たちの人生にとって、最もその意味を理解することができない謎の一つです。

 

誰からの慰めの言葉も届かない場所、一切の光が届かない暗闇。私たちは生きてゆく中で、そのような暗闇に追い込まれてしまうことがあります。神の子キリストはまったき一人の人間となって、その私たちの暗闇にまで、降りて来てくださいました。そうして、私たちと共に苦しみながら、何としてでも、私たちと一つに結びつこうとしてくださいました。いまも、結びつこうとしてくださっています。

 

 

 

「あなたは独りではない。あなたは生きよ」

 

十字架のキリストは「見捨てられた」と叫びながら、そのお姿を通して、私たちに「あなたは独りではない」と語りかけてくださっています。「あなたは独りではない、わたしはここにいる。あなたのこの苦しみの中に、あなたの悲しみの中に、あなたの痛みの中に、わたしは共にいる」と。

 

十字架のキリストは、そのお姿を通して、私たちに「あなたは生きよ」と語りかけてくださっています。「あなたは生きよ。たとえいまは意味が見いだせなくても、あなたがいま生きて存在していることに最大の意味がある。あなたは生きよ」。

 

 

十字架のキリスト、この方こそ、まことの神の子であると私たちも信じます。