2026年1月25日「権威ある新しい教え」
2026年1月25日 花巻教会 主日礼拝説教
各地で厳しい寒さと例年にない大雪が続いています。花巻も連日、たくさん雪が降っていますね。皆さんも雪かきや外出の際はくれぐれも安全にお気を付けください。お一人おひとりのご健康と安全が守られますよう、特に記録的な大雪となっている地域の皆さまの生活と安全が守られますようお祈りしています。
イエス・キリストの悪霊祓い
メッセージのはじめに、本日の聖書箇所であるマルコによる福音書1章21-28節をお読みしました。本日の場面では、イエス・キリストがある男性に憑りついた「汚れた霊(悪霊)」を追い出す場面が記されていました。
《そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。/「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」/イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、/汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った》(23-25節)。
何だか不思議な、ちょっと不気味さも感じる場面ですね。イエスさまが行われたのは、いわゆる「悪魔祓い(悪霊祓い)」と呼ばれるものです。映画『エクソシスト』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。悪魔祓いは、たとえば現代でもイタリアなどでは盛んですが、日本の教会ではごく少数の教会を除き、ほとんど行われてはいません。私も牧師になってから、悪魔祓いを行ったことも、立ち会ったこともありません。ただし、福音書を読みますと、イエスさまが悪霊を追い出す場面が繰り返し出てきます。イエスさまが生前、ご自身の働きとして大切にしていらっしゃったのが、病いの癒しと、そしてもう一つ、この悪霊の追い出しでした。
悪霊とは……?
改めて、悪霊とはどのような存在なのでしょうか……? 亡くなった人の霊である幽霊ではありません。日本では、人間に憑りついたりイタズラしたりする妖怪がいますが、妖怪でもありません。福音書に登場する悪霊がどのような存在であったかは、後世の私たちにははっきりとは分かりません。様々な解釈が可能であると思います。現代の私たちの視点からすると、何らかの精神疾患に該当する場合もあったかもしれません。一方、福音書に記される悪霊の働きのすべてが精神的な病いに起因するものと言えるかというと、そうではありません。
本日の聖書箇所を読んで分かることの一つは、悪霊はイエスさまが何者であるか見抜いているということです。周りの人々がイエスさまの権威ある教えに「この人は何者か」と非常に驚く中、悪霊はまっさきにイエスさまが神の子であることを見抜き、《ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ》(24節)と叫びます。悪霊がイエスさまを恐れている様子も伺えます。《かまわないでくれ》を別の翻訳(岩波訳聖書)では《何〔の関係〕があるのだ》と訳しています。イエスさまから発されている力と、悪霊の力とは根本的に相容れない、関係を持つことができないものであるからです。イエスさまが近づけば近づくほど、悪霊はもはやその場にいることに耐えられません。
イエスさまが宣べ伝えようとしている神の国とは相容れない存在。神の国の福音と敵対する、何らかの否定的な力、それが悪霊であるとまずは受け止めることができるでしょう。
神の国の福音
悪霊がどのような存在であるかを理解するには、イエスさまと共に到来する神の国がどのようなものかを振り返る必要があります。
先週の礼拝では、公の活動を始められたイエス・キリストの第一声《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15節)をご一緒に読みました。イエスさまの神の国への招きに続き、湖で漁をしていたペトロたちを弟子へと招く場面を読みました。その場面に続いて記されるのが、本日の悪霊祓いの箇所です。
イエスさまが宣べ伝える神の国は、ある特定の国家のことを指しているのではありません。神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、神の願い、またそして神の愛が満ち満ちている場が、神の国です。時が満ち、この神の国が近づいていることをイエスさまは宣言されました。
私自身はこの神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つも見失われないこと」と「違いがありつつ、一つであること」の意味を込めています。
神によって造られた一つひとつの存在が、一つも見失われることなく、かけがえがない=替わりがきかないものとして、包摂されている世界。一つひとつの存在が、互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。そのように、互いに補い合うことにより、神の平和(シャーローム)が実現されている世界。
それは、過去‐現在‐未来のすべての時を内包する、「いまこの時」において立ち現れる、新しい世界の在り方です(参照:大貫隆先生『イエスという経験』、岩波現代文庫、2014年)。この新しい世界の在り方においては、すべての、一つひとつの存在が、あるがままに、極めて「良い」(創世記1章31節)ものとして、無条件の肯定のもとに置かれています。この在り方を私は「十全なる世界の在り方」と形容し、生前のイエスさまが宣べ伝えた神の国についての私なりの説明としています。イエスさまはご自身が、この十全性の内実を生きた方であったのではないでしょうか。イエスさまは、この十全なる世界(=神の国)がすでに天にあるように、ご自身と共に、地上にも到来しようとしていることを伝えてくださいました。
イエスさまが宣べ伝えた神の国を、つい最近、詩のかたちで表現してみましたので、読んでみたいと思います。タイトルは「十全なるいま」としました。
空の鳥
野の花
このわたし
満ちあふれる
いまこの時
過去と
現在と
未来
すべてを包む
いまこの時
あるがままに
空の鳥
野の花
わたしとあなた
ひとつの欠けもない
ひとつひとつが かけがえのない
あるがままに
すべてが「良し」とされた
この十全なるいまを
ナザレの人は「神の国」と呼びます
悪霊 ~「かけがえのなさ(尊厳)」を否定する力
イエスさまが宣べ伝える神の国についてご一緒に振り返りました。その上で、改めて悪霊について考えてみましょう。先ほど、悪霊は神の国とは相容れない存在であると述べました。悪霊は、イエスさまが宣べ伝える神の国の福音の到来に耐え得ない。悪霊は、神の国の福音と敵対する、否定的な力だからです。イエスさまと共に神の国が近づけば近づくほどに、悪霊たちは激しく抵抗し始めます。そうして神の国の実現を阻止しようとします。
本日の箇所において、イエスさまが《黙れ。この人から出て行け》(25節)とお叱りになると、悪霊はその言葉の通り、男性から出て行きます。男性に憑りついていた悪霊は、遂に追い出されます。この悪霊の追い出しは、神の国の到来を見えるかたちで現わしているものだと受け止めることができます。病いの癒やしの出来事もそうです。生前のイエスさまにおいて、悪霊の追い出しと病いの癒やしは神の国がいま到来し実現していることのしるしなのであり、だからこそその行為を重視されていたのですね。
神の国の福音と敵対する力が悪霊であるとすると、悪霊とは、存在の「かけがえのなさ」を否定する力として受け止めることもできるでしょう。かけがえのなさは「尊厳」とも言い換えることができます。私たち一人ひとりに神さまから与えられている尊厳を否定する力、奪おうとする力、それが悪霊であると本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
私たち一人ひとりがかけがえない存在であるということは、一人ひとりが異なった存在であることを意味します。私たちはそれぞれ、この世界に一人だけの、かけがえのない存在であり、それぞれに違いがある。だからこそ、互いに補い合い、支え合ってゆくようにと神さまから招かれています。しかし悪霊は、その神の国の招きを否定します。共に生きるという、人の生の根幹にあるあり方を否定しようとする力、それもまた悪霊の力であると受け止めることができます。少数を多数に同化させようとする、あるいは違いを排除しようとする全体主義的な言説も、この否定的な力から生じているものではないでしょうか。
悪霊がそのように、私たちの尊厳を否定し、共に生きるあり方を否定する働きであるとすると、この否定的な力は空想上のものではなく、私たちが現実に日々経験し得るものであることが分かります。私たちの近くに遠くに、この悪霊の力は猛威を振るい、私たちを傷つけ、私たちの社会を傷つけていると言えるのではないでしょうか。
たとえば、戦争は存在のかけがえのなさを否定する力の最たるものです。一人ひとりの存在を替わりがきくものとし、その命と尊厳を傷つける、最も大きな暴力が戦争です。他者の命と尊厳を否定し、存在を「ない」ことにするこの巨大な悪しき力が、悪霊によるものと言わずに何と言うでしょうか。
また身近な私たちの関係性においても、存在のかけがえのなさが否定されることは絶えず起こり得るものです。たとえば私たちの社会において重大な問題であるいじめやハラスメントがそうでありましょう。いじめやハラスメントは、他者の尊厳を深く傷つける行為であり、決して容認してはならないものです。ハラスメントは私たちの関係性を破壊し、共に生きる在り方を破壊してゆきます。
私たちはこれら暴力に対して、はっきりと「否」を言わねばなりません。イエスさまが生前、悪霊の働きに対してはっきりと「否」をつきつけ、《黙れ。この人から出て行け》と言って悪霊を追い出されたように――。
これらの悪しき働きは気が付くと私たちを取り込み、私たちをまどろみの中に入れようとします。私たち自身の内にも、もしかしたら、《かまわないでくれ》《何〔の関係〕があるのだ》と、神の国の到来を避けようとする想いが芽生える瞬間があるかもしれません。私たちはこれらの否定的な力に取り込まれることなく、はっきりと目を覚ましていなければなりません。私たちにその肯定的な力を与えてくれる源が、神の国の福音です。
《権威ある新しい教え》
本日の聖書箇所では、イエスさまが悪霊を追い出したのを見て、人々は皆驚いて、論じ合います。《これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く》(27節)。人々はいまだ、イエスさまがどなたであるかを分かっていません。けれども、イエスさまの教えが《権威ある新しい教え》だということは分かりました。人々はイエスさまの教えに、《権威》と、そして《新しさ》を感じ取ったのです。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まっていきました(28節)。
イエスさまの教えの「権威」は、「出て行きなさい」というイエスさまの言葉のとおりに、悪霊が出て行ったところに現わされています。その権威は、今まで述べてきましたように、神の国の権威に由来しています。
さらに、イエスさまの教えは、「新しい」ものとして人々に受け取られました。一人ひとりに存在のかけがえのなさ(尊厳)を取り戻してくださる神の国の教えは、当時の人々にとって、まったく新しい教えとして響いたのです。またそして、その教えは私たちにとっていまも新しいものであり続けているのではないでしょうか。
私たち自身、尊厳を否定する悪しき力に同調してしまっている瞬間もあるでしょう。折々に自他の尊厳を傷つけながら生きざるを得ないのが、私たちの率直な現状であるでしょう。だからこそ私たちは日々新たに、神の国の福音に出会い直すことが求められています。
私たち一人ひとりが、まことに尊厳をもって生きてゆくことができるように。私たちが互いをかけがえのない存在として受け止め、補い合い支え合いながら、共に生きてゆくことができるように――。
十字架の死よりよみがえられたイエスさまは、いまも、私たちと共におられます。イエスさまはおっしゃいます、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。この神の国の招きの言葉に、いま私たちの心を向けたいと思います。
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