2026年3月1日「ベルゼブル論争」
2026年3月1日 花巻教会 主日礼拝説教
受難節第2主日礼拝
私たちは現在、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。本日は受難節第2主日礼拝をおささげしています。
受難節のこの時、イエスさまのお苦しみに心を開き、いま困難の中にある隣り人の苦しみに心を開いてゆきたいと思います。
イスラエル軍とアメリカ軍がイランを先制攻撃、ウクライナ侵攻から4年
昨日2月28日、イスラエル軍とアメリカ軍が国際法を無視し、イランを先制攻撃しました。これからさらに報復が激化し、中東全域を巻き込む戦争に発展してゆくことが懸念されます。この度の武力行使によって、同日夜までに子どもたちを含め、201名の方々が亡くなったことが報道されています。イスラエル国とアメリカの蛮行は、決して容認することのできないものです。一刻も早く、戦闘を停止することを求めます。
この数年、「法の支配」を軽んじ「力の支配」に頼る傾向が加速し、世界情勢はますます混迷を極める一方となっています。力の支配とは、法の秩序や対話によってではなく、軍事力や経済力によって、あるいは武力行使によって、有無を言わさず(強制的に)他国・他者を支配しようとすることを言います。ネタニヤフ首相やトランプ大統領、プーチン大統領はまさにそれを実行している指導者たちです。
先週2月23日、ジュネーブで開かれた国連人権理事会の年次会合の開会式において、国連のアントニオ・グテレス事務総長は《世界中で人権が全面攻撃を受けており、法の支配が力の支配に押しつぶされている》と述べました(Yahoo!ニュースJapan「国連事務総長「力の支配」拡大に警鐘 人権理会合」、https://news.yahoo.co.jp/articles/af7b0fcc2681db75099b4a28cf3dcbc8994f70e0)。グテレス氏が指摘するように、力の支配が法の支配を押しつぶし、世界中で人権が侵害されている現状、特に、弱い立場にある人々の権利が踏みにじられている現状があります。
2月24日、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から4年を迎えました。ロシアとウクライナの戦争もこの4年、停戦に至ることなく継続されています。この4年間、多くの人々の生活が破壊され、その命と尊厳が奪われています。一刻も早く、ウクライナでの戦争が停戦へと至りますようにと願います。また、私たちの社会が力の支配に向かうのではなく、一人ひとりの生命と尊厳を第一とする道へと立ち帰ってゆきますようにと切に願うものです。
大船渡市山林火災から1年、東日本大震災と原発事故から15年
2月26日、大船渡市山林火災の発生から1年を迎えました。1年が経った現在、住宅の再建、なりわいの再生、森林の復旧など、さまざまな課題が残っています。いまも困難の中にいる方々を覚え、引き続きご一緒に祈りを合わせたいと思います。
今日から3月に入りました。3月11日には、東日本大震災と原発事故から15年を迎えます。私たち花巻教会が属する奥羽教区では3月8日に新生釜石教会を会場に、東日本大震災15年を覚えての礼拝をおささげします。震災と原発事故を覚えて、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。
ベルゼブル論争
本日の聖書箇所マルコによる福音書3章20-27節には、イエス・キリストと律法学者たちの間でなされた論議が記されています。律法学者とは、聖書に精通した、律法の専門家のことです。私たちが使用している新共同訳聖書では「ベルゼブル論争」というタイトルが付させていますね。本日の礼拝メッセージにタイトルも「ベルゼブル論争」としました。
ベルゼブルとは悪霊の親玉のことで、サタンの別名です。エルサレムから来た律法学者たちは、イエスさまが《ベルゼブルに取りつかれている》と言い、《悪霊の頭の力で悪霊を追い出している》という噂を流していたのです(22節)。
福音書にはこの「悪霊」と呼ばれる不可思議な存在が何度も登場します。イエスさまは病いの癒しと共に、悪霊を追い出すことをご自身の大切な働きの一つとしておられました。そのことを受け、一部の人々は「イエスは悪霊の親玉ベルゼブルに取りつかれており、だから人々に取りついている下っ端の悪霊を追い出すことができる」のだと悪い評判を流していたようです。もちろんこれは事実とは異なる、悪意に基づいた噂話です。イエスさまを敵視していた一部の律法学者たちは、イエスさまを貶めようとして、そう言っていたのでしょう。
そこで、イエスさまは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られました。《どうして、サタンがサタンを追い出せよう。/国が内輪で争えば、その国は成り立たない。/家が内輪で争えば、その家は成り立たない。/同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。/また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。…》(23-27節)。
どんな国でも内輪で争えば成り立たないように、悪霊同士が内輪で争えば、成り立たってゆかない。すなわち、悪霊が悪霊を追い出すなどあり得ない、とイエスさまは律法学者たちの言葉をはっきりと否定されました。
では、イエスさまは何の力によって、悪霊を追い出しておられたのでしょうか。それは、「神の霊(聖霊)」の力です。同じ場面を取り上げたマタイによる福音書12章には次のイエスさまの言葉が記されています。《わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ》(28節)。イエスさまは悪霊ではなく、聖霊によって、悪霊を追い出しておられたことが分かります。
また、このイエスさまの言葉から読み取れることは、悪霊の追い出しは、神の国の到来のしるしであるということです。生前のイエスさまにおいて、悪霊の追い出しと病いの癒やしは神の国がいま到来し実現していることのしるしなのであり、だからこそイエスさまはその働きを重視されていたのですね。
悪霊 ~存在のかけがえのなさ(尊厳)を否定する力
改めて、悪霊とはどのような存在なのでしょうか。福音書に登場する悪霊がどのような存在であったかは、後世の私たちにははっきりとは分かりません。現代の私たちの視点からすると、何らかの精神疾患に該当する場合もあったかもしれません。一方、福音書に記される悪霊の働きのすべてが精神的な病いに起因するものと言えるかというと、そうではありません。
一つ言えることは、イエスさまから発されている力と、悪霊の力とは根本的に相容れないものであるということです。イエスさまが宣べ伝えようとしている神の国とは相容れない存在。神の国の福音と敵対する、何らかの否定的な力、それが悪霊であると受け止めることができるでしょう。
では、イエスさまが宣べ伝える神の国とは、どのようなものでしょうか。先週の礼拝では、公の活動を始められたイエス・キリストの第一声《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》をご一緒に読みました(マルコ福音書1章15節。2月22日礼拝メッセージを参照)。
ここでの「神の国」とは、ある特定の国家を指すものではありません。神さまの愛のご支配が満ち満ちている場が、神の国です。この神の国においては、私たち一人ひとりが、神に愛された、かけがえのない存在として尊重されています。時が満ち、この神の国が近づいていることをイエスさまは宣言されました。
本日は、神の国の福音を、「一人ひとりに、存在のかけがえのなさを取り戻してくださる神の力」として受け止めてみたいと思います。かけがえのなさは「尊厳」とも言い換えることができるものです。
この神の国の福音と敵対する力が悪霊であるとすると、悪霊とは反対に、「存在のかけがえのなさ(尊厳)を否定する力」として受け止めることもできるでしょう。私たち一人ひとりに神から与えられている尊厳を否定する力、奪おうとする力、それが悪霊であるのだと本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
力の支配、「強さ」に重きを置く価値観
悪霊をそのように、私たちの尊厳を否定する力であると受け止め直してみると、この否定的な力は空想上のものではなく、私たちが日々の生活において経験し得るものであることが分かります。私たちの近くに遠くに、この悪しき力は猛威を振るっているのではないでしょうか。
その最たるものが、戦争です。一人ひとりの命と尊厳を奪い、傷つける、最も大きな暴力が戦争です。
メッセージの前半で、いまの世界情勢において、「力の支配」に頼る傾向が加速していると述べました。力の支配とは、軍事力や経済力によって、あるいは武力行使によって、強制的に、他国・他者を支配することを言います。私たちが力の支配に頼ろうとするとき、私たちは知らずしらず、悪霊の悪しき力に同調していることになりはしないでしょうか。力の支配が猛威を振るうことによって周縁に追いやられるもの、それが、私たち一人ひとりの尊厳に他なりません。
私たちの日本の社会においても現在、軍事力と経済力をより強化し、「強い日本」であろうとする主張が勢いをもっています。この「強さ」に重きを置く価値観は、力の支配と親和性があるものであり、強い懸念を覚えるものです。軍事力や経済力において国家が強くあろうとすればするほど、市民一人ひとりの尊厳が周縁に追いやられ、人権が軽んじられることになる恐れがあるからです。
ちなみに、尊厳と人権という言葉の違いについて述べておきます。尊厳とは、私がもっともしっくりと来る言葉で言い表しますと、「かけがえのなさ」(代替不可能性)のことです。一方、人権とは、「人間が、人間らしく生きていく権利」のことを言いますね。そのように定義しますと、尊厳は人権の根拠であり、人権はその尊厳を護るための具体的な諸権利であると理解することができるでしょう。かけがえのない、尊厳をもった存在である私たち一人ひとりを守るための、具体的な諸権利が人権です。
私たちの身近な関係性においても
私たちの尊厳を傷つけ、人権を侵害する最も大きな暴力が戦争ですが、私たちの身近な関係性においても、尊厳が傷つけられることは絶えず起こり得るものです。たとえば、私たちの社会において重大な問題であるハラスメントがそうです。
ハラスメントは、立場が強い(優位な)人が、立場がより弱い人に対して、有無を言わさず(強制的に)力を行使し、支配しコントロールするという点において、力の論理と共通しています。ハラスメントは、他者の尊厳を傷つけ、人権を侵害する行為であり、決して容認することはできないものです。
私たちはこれらの暴力に対して、はっきりと「否」を言わねばなりません。イエスさまが生前、悪霊の働きに対してはっきりと「否」をつきつけ、悪霊を追い出されたように(マルコ福音書1章25、26節)――。
尊厳がないがしろにされている現実を、イエスさまは見過ごしにはなさらない
本日の聖書箇所の後には、次のイエスさまの言葉が記されています。《はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。/しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》(3章28、29節)。
人々が犯すどんな罪や冒涜も赦されるが、聖霊に対する冒涜は赦されない。様々な読み取りが可能な、解釈が難しい言葉の一つですが、本日はこのみ言葉を、「一人ひとりに、存在のかけがえのなさ(尊厳)を取り戻してくださる聖霊の働きを冒涜することは赦されない」という意味に受け止めてみたいと思います。他者の尊厳をふみにじる行為は、聖霊のお働きを冒涜するものであり、赦されないものなのです。
「赦される」と訳されている言葉は、原語では「そのままにしておく」という意味も持っています。「赦されない」とは、言い換えますと、「容認しない」「見過しにはしない」という意味にも取れるでしょう。尊厳がないがしろにされている現実を、イエスさまは決して見過ごしにはなさらない。その現実に対峙し、私たちに尊厳を取り戻すべく働いてくださるお方です。死よりよみがえられたイエスさまはいまも私たちと共におられ、聖霊に対する冒涜が決してそのままにされないよう、共に働いてくださっています。
イエスさまが宣べ伝えてくださる神の国の福音にいま、共に心を向けることができますように。力の支配に頼らず、一人ひとりの生命と尊厳がまことに大切にされる社会を祈り求めてゆくことができますようにと願います。
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