2026年3月8日「死と復活の予告」
2026年3月8日 花巻教会 主日礼拝説教
東日本大震災と原発事故から15年
今週の3月11日、私たちは東日本大震災と原発事故から15年を迎えます。震災から15年が経とうとしていますが、いまも多くの方が困難の中、深い悲しみ、痛みの中にいます。原発事故による甚大なる影響と被害はいまも、現在進行形で続いています。東日本大震災と原発事故を覚え、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
本日の午後、奥羽教区では、新生釜石教会を会場に東日本大震災15年を覚えての礼拝をおささげします。私も礼拝後、新生釜石教会に向かい、礼拝に参加します。奥羽教区YouTubeチャンネルでも配信されますので、会場に集えない皆さまはぜひご自宅からご参加ください。
死と復活の予告
先ほどご一緒に、本日の聖書箇所であるマルコによる福音書8章27-33節をお読みしました。フィリポ・カイサリア地方への旅の途中、イエス・キリストが弟子たちに、ご自分の死と復活を予告される場面です。
その日、フィリポ・カイサリア地方の村々へ向かう途中、イエスさまは弟子たちに《人々は、わたしのことを何者だと言っているか》(27節)と尋ねられました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネ(の後継者)だと言っています」と答えました。あるいは、イスラエルの偉大な預言者である「エリヤ(の再来)だ」と言う人もいれば、「預言者の一人だ」と言う人もいる。弟子たちはイエスさまに対する様々な評判を伝えました(28節)。
そこでイエスさまは、《それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか》(29節)と改めて弟子たちにお尋ねになりました。このイエスさまの問いに対し、弟子のリーダー格のペトロは、「あなたは、メシアです」と答えました。
メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」という意味があり、後に「救い主」という意味で用いられるようになった言葉です。このメシアのギリシア語訳が「キリスト」です。ペトロはここでイエスさまに対して「あなたはキリスト、救い主です」と答えたことになります。
「あなたはキリストです」。一見、ペトロはふさわしい答えをしたように見えます。しかし、ペトロがそのとき頭に思い描いていたキリスト像は、政治的な救世主としてのキリストであった可能性があります。
当時、パレスチナはローマ帝国の支配下にありました。人々の間にはローマ帝国への反感が強まっていました。人々は自分たちをローマの支配から解放する政治的な救世主の登場を待ち望んでいました。そうして一部の人々は、ナザレのイエスこそその救世主ではないかと期待していたようです。「あなたはキリストです」というペトロの告白も、その期待が吐露されたものとして受けとめることもできるでしょう。
「あなたはキリスト、私たちをローマの支配から解放する救世主です」。そのペトロの言葉に対して、しかし、イエスさまはうなずくことはなさいませんでした。イエスさまはご自分のことを誰にも話さないようにとお命じになり、次のことを教え始められました。
《人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている》(31節)。これから、ご自分が多くの苦しみを受け、宗教的な権力者たちから排斥されて殺されること。そして、三日目に復活することをはっきりと予告されたのです。
この死と復活の予告は、福音書の物語をすでに知っている私たちからすると、特に違和感なく読むことが出来る言葉かもしれません。しかし、その場にいた弟子たちにとっては、どれほど衝撃的な言葉であったことでしょうか。
仰天したペトロは、思わずイエスさまをわきへとお連れして、いさめ始めました。「何ということをおっしゃるのですか。そんなことは絶対あってはなりません」。弟子たちが皆、動揺する中で、ペトロは弟子のリーダーとしてイエスさまをいさめようとしたのかもしれません。
イエスさまは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱っておっしゃいました。《サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている》(33節)。
《サタン、引き下がれ》 ~私の後ろに行きなさい
本日の場面をご一緒に振り返りました。最後のイエスさまの言葉について、ちょっとペトロがかわいそうだと思った方もいるかもしれません。そこまで言わなくても良いのではないか、と。もちろんのことですが、ここでイエスさまはペトロ自身のことを「サタン」と呼んだのではありません。ペトロの背後に、彼に働きかけようとしている悪しき力を見出して、それを「サタン」と呼んだのです。
サタンは悪魔と同義語です。福音書では、イエスさまが宣べ伝える神の国の福音に敵対する存在として、このサタンが登場します。イエスさまは、ご自分をいさめるペトロの背後に、サタンの働きを感じ取っておられたことが伺えます。
《サタン、引き下がれ》の「引き下がれ」は、「私の後ろに行け」とも訳すことができる言葉です。福音書の原文では「私の後ろに」という言葉が記されているのですね。
ペトロは政治的な救世主を待ち望んでいました。ここでその期待が前面に出てしまったわけですが、それはイエスさまが真に願っておられることではありませんでした。イエスさまが願っておられることを前に、その期待は後ろに退かねばならないのです。そう、「私の後ろに行きなさい」――。
では、イエスさまが願っておられたことは何でしょうか。それは、神の国の実現です。国家としてのイスラエルの再興ではなく、神の国の実現をイエスさまは志しておられました。生前のイエスさまは、この地に神の国を実現することを、ご自分のなすべき務めとしておられたのです。
ここでの神の国とは、特定の国家を指すものではありません。神さまの愛のご支配が満ち満ちているところのことを指しています。この神の国においては、私たち一人ひとりが、神に愛された、かけがえのない存在として尊重されています。
先週の礼拝メッセージでは、この神の国の福音を、「一人ひとりに、存在のかけがえのなさを取り戻してくださる神の力」としてご一緒に受け止めました。かけがえのなさは「尊厳」とも言い換えることができるものです。
私たちの一方的な期待は、神の国の福音を前にするとき、後ろへと退かねばならない。イエスさまの前に出るのではなく、後ろに行かねばならないのです。
神さまの目に尊厳ある、かけがえのない一人ひとりが、誰一人失われることのないように、イエスさまはこれから、十字架と復活への道を歩んでゆかれることとなります。私たちはそのイエスさまの後ろを歩むよう、共に招かれています。
イエスさまの後ろを歩む ~一人ひとりの生命と尊厳を第一に
イエスさまの後ろを歩むとは、言い換えますと、イエスさまが宣べ伝えられた神の国の在り方を第一とするということです。自分の都合や利益を第一とするのではなく、神の国の使信を第一とすること。私なりに言い換えますと、一人ひとりの生命と尊厳を守ることを第一とすることが、イエスさまの歩まれるその後ろに従って歩むことであるでしょう。
反対に、自身の都合や身勝手な思いが前面に出て、イエスさまの歩みを止めようとしてしまうとき、いつの間にか私たちの側にはサタンが忍び寄っているのかもしれません。
生命と尊厳が傷つけられている現実
先ほど、サタン(悪魔)はイエスさまが宣べ伝える神の国の福音に敵対する存在であると述べました。その意味で、サタンとは、「存在のかけがえのなさ(尊厳)を否定する力」として受け止めることができるでしょう。私たち一人ひとりに神から与えられている尊厳を否定する力、それが悪霊であるのだとご一緒に受け止めてみたいと思います。
悪霊をそのように受け止め直してみると、この否定的な力は空想上のものではなく、私たちが日々の生活において経験しているものであることが分かります。私たちの近くに遠くに、この悪しき力は猛威を振るっています。私たちの近くに遠くに、神の目にかけがえのない一人ひとりの生命と尊厳が傷つけられている現実があります。
一刻も早く停戦を
2月28日、イスラエル軍とアメリカ軍が国際法を無視してイランに先制攻撃を行いました。双方による報復の応酬は中東広域に拡大しています。イランではすでに小学生の子どもたちを含め、大勢の市民の方々が犠牲になっています。何ら関係のない市民を、子どもたちをも巻き込む攻撃は、決して赦すことができないものです。今回イスラエルとアメリカが行ったことは、非人道的行為の極みです。皆さんも報道に接し、大変心を痛めておられることと思います。
一人ひとりの命と尊厳を奪い傷つける、最も大きな暴力が戦争です。どんな理由があっても、あらゆる武力行使は決して正当化することはできないし、決して容認することはできないものです。イスラエルとアメリカによる攻撃、イランからの報復攻撃の双方が、一刻も早く停止されることを切に願います。
「サタンよ、私の後ろに行きなさい」
中東地域での戦争を始め、私たちが生きているこの世界には、人々の生命と尊厳が軽んじられ、傷つけられている現実があります。ネタニヤフ首相とトランプ大統領をはじめ、国の指導者たちの身勝手な都合や願望が前面に出ることで、どれほど神の国の実現が妨げられ、どれほど多くの人々の生命と尊厳が奪われ、傷つけられていることでしょうか。激しい憤りを感じずにはおられません。
イエスさまは尊厳を否定しようと働くサタンを叱責し、容認することなく、はっきりと斥けられました。「サタン、私の後ろに行きなさい」――。イエスさまのこの声が、各国の指導者たちに届くようにと切に願うものです。
また私たち自身、尊厳を否定しようとする悪しき力をはっきりと斥け、いつも目を覚まして、神の国を第一とする姿勢を保ち続けることが求められています。一人ひとりの生命と尊厳が守られることが、何にもまして優先されねばならないということ。今一度、この真理を私たちの心に刻みたいと思います。
ガリラヤ湖のほとりで、かつてイエスさまはペトロたちおっしゃいました、「私の後ろについてきなさい」(1章18節)――。そうして、弟子へと招いてくださいました。十字架の死よりよみがえられたイエスさまはいまも、私たち一人ひとりを招いてくださっています。
《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい》
マタイによる福音書には次のイエスさまの言葉が記されています。《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる》(マタイによる福音書6章33節)。
ここでイエスさまは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい、と教えてくださっています。一人ひとりが尊厳ある、かけがえのない存在として尊重されている場が、神の国でした。神の義(神の正義)とは、その神の目に大切な一人ひとりの尊厳がないがしろにされることを、神は決しておゆるしにならないということです。
もしも生命と尊厳が軽んじられ、傷つけられている現実があるのなら、神さまはその現実を決して見過ごしにはなさらない。神の国と共に、この神の正義を一心に祈り求めるようにと、イエスさまは私たちに教えてくださっています。この祈りはすべての、一人ひとりの内にある祈り、まことの願いともつながっているものでありましょう。
《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい》――。混沌とした、悲しみと痛みに満ちた現実の中にあって、イエスさまの後ろで、イエスさまと共に、神の国と神さまの正義を第一に祈り求めてゆきたいと願います。
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