2026年5月24日「聖霊が一人ひとりの上に」

2026524日 花巻教会 ペンテコステ礼拝説教

聖書箇所:使徒言行録2111

聖霊が一人ひとりの上に

 

 

 

ペンテコステ ~聖霊降臨日/教会の誕生日

 

本日はペンテコステ礼拝をご一緒におささげしています。ペンテコステは聖霊降臨日とも言い、イエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちのもとに聖霊(神の霊)が降った出来事を記念する日です。クリスマスやイースターに比べると日本では知られていませんが、ペンテコステはキリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで重要な祭日です。

 

クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念する日。イースターはイエス・キリストの復活を記念する日ですね。ペンテコステは教会の誕生を記念する日であるとも言われます。ペンテコステとは、いわば、教会の誕生日。教会が誕生したその瞬間を記しているのが、本日の聖書箇所使徒言行録2111節です。

どのような箇所であったか、改めてご一緒に読んでみましょう。

 

 

 

イエス・キリストを証する教会の誕生

 

その日、エルサレムでは五旬祭という祭が行われ、大変な賑わいを見せていました。パレスチナ各地から巡礼者も大勢集まっていたことでしょう。盛岡でも昨日から今日にかけて東北6県の祭りが集う「東北絆まつり」が行われていますね。

街中が賑わう中で、弟子たちは家に集まって、一心に祈っていました。そこには弟子たちと一緒に、婦人たち、イエスさまの母マリア、イエスさまの兄弟たちもいました。 

 

ユダヤ教にとって大切なお祭りが行われているのに、なぜ弟子たちは家に集まっていたのでしょうか。そこには、次のイエスさまの約束の言葉が関係していました。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい(ルカによる福音書2449節)。イエスさまが昇天されるにあたって、弟子たちに対して語られた言葉です。ここでの《約束されたもの》とは、聖霊のことです。弟子たちはこの約束を信じ、共に集まり、イエスさまが聖霊を送ってくださる時を待ち望んでいたのですね。

 

一同が一つになって集まっていると、突然、激しい《風》が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響きわたりました。そうして、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった、と聖書は記します(使徒言行録213節)

 スクリーンをご覧ください。この聖霊降臨の場面を描いたエル・グレコの絵です。母マリアと弟子たちの頭の上に、小さな《炎のような舌》が描かれていますね。この《炎のような舌》が、聖霊が降ったことのしるしです。

 

聖霊が降って、どうなったのでしょうか。聖霊に満たされた一同は、さまざまな国の言葉で話し出した、と聖書は記します4節)。その時、エルサレムには各地から人々が帰って来ていましたが、この物音に大勢の人が「何ごとか」と集まってきました。そして皆、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、驚き、あっけにとられてしまいました56節)

 

  911節のところではさまざまな地名が出てきています。《パルティア、メディア、エラム》《メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方》《ローマ》《クレタ、アラビア》……など。これらは当時知られていた、世界の国々のリストです。祭りのために各地からエルサレムに帰って来ていた人々は、皆、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、驚きました。自分がよく知っている言葉、自分が分かる言葉が話されているのを聞いて、驚いたのです。 

 

ここで弟子たちがさまざまな国の言葉で何を話していたのかは記されてはいませんが、イエスさまについて話していたと受け止めることができるでしょう。弟子たちはさまざまな国の言葉で、神の子・救い主なるイエスさまについて、証言を始めたのです。これが、イエス・キリストを証しする教会が誕生した瞬間です。

先ほど、ペンテコステは教会の誕生日でもあると言いました。ペンテコステが教会の誕生日と言われるのは、聖霊が降ったその日、イエス・キリストを証しする人々の集まり=教会が誕生したからです。

 

 

 

キリスト教の歴史とは、教会分裂の歴史でもある

 

こうして誕生したキリストの教会は、当然のことながらはじめは一つだけでした。しかしその後、教会は幾多もの分裂を繰り返していくこととなります。先週の礼拝メッセージでは、「キリスト教の歴史とは、教会分裂の歴史でもある」と述べました。現在、キリスト教には様々な教派が存在していますが、教派が数多くあるということは、それだけ分裂を繰り返してきたということでもあります。

 

先週も申しましたように、教会が分裂すること自体は、必ずしも否定的に受け止めるべきことではありません。分裂の結果、さまざまな教派や教会が生まれ出ることができたのであり、そこにはかけがえのない意義があります。

悲しむべきことは、その過程で、時にキリスト者が互いに憎み合い、敵対し合うことをくり返してきたことです。新約聖書には「教会はキリストの体」という表現があります(エフェソの信徒への手紙123節など)。この言葉を踏まえますと、教会の対立は、その一つなるキリストの体が引き裂かれることを意味します。キリスト教の歴史は、キリスト者が互いに敵対し対立し合うことによって、キリストの体が引き裂かれて行った歴史でもありました。

 

 

 

エキュメニカル・サンデー

 

先週の礼拝メッセージでは、「エキュメニズム」という言葉も紹介しました。エキュメニズムは「教会間に再び一致を取り戻そうとする理念・運動」を指す言葉で、教会は本来、一つのキリストの体であるとする信仰を土台としています。「教会はキリストの体」という表現を踏まえれば、エキュメニズムは引き裂かれたキリストの体を再び一つにする運動だと言えるでしょう。

 

ペンテコステである本日は、エキュメニカル・サンデーとしても定められています。教会の一致を祈り求める日です。ペンテコステ礼拝をおささげする今日、教会が一つとなることへの祈りをご一緒に新たにしたいと思います。聖霊は、私たち教会が一致するよう、再び一つとなるよう、働いてくださる方であるからです(エフェソの信徒への手紙434節)

 

 

 

ペンテコステ ~「違いがありつつ、一つ」である教会の誕生

 

ここでの一致とは、違いをなくしてみんなが「同じになる」ことを意味するものではありません。違いはありつつ、同時に、一つに結び合わされているという意味での一致です。聖書は、違いを否定して一つとなるのではなく、違いを通して一つとなっていく在り方を伝えています。私なりに表現すると、「違いがありつつ、一つ」である在り方です。

 

新約聖書の手紙は、それをやはり体のイメージで表現しています(ローマの信徒への手紙1245節、コリントの信徒への手紙一121227節、エフェソの信徒への手紙41216節など)。体の各部分がそれぞれに異なった働きをしつつ、一つに結び合わされているように、私たちも違いがありつつ、キリストの体に一つに結び合わされている。私たちはキリストの体の部分として、それぞれがかけがえのない役割を果たしながら、互いに補い合っているのだと聖書は語ります。

 

 ですので、教会が再び一つになることは、原始エルサレム教会に戻るということではありません。教会がただ一つだけであった時代に戻るということではありません。すでに無数の教派、教会が生まれ出ているのであり、その一つひとつの存在と働きに、かけがえのない意義があるからです。

 

確かに、聖霊が降ったその日、弟子たちの心は一つでした。使徒言行録でも《一同が一つになって集まっていると……》と記されています。そのように皆が一つになって集まっていると、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。そして、さまざまな国の言葉で、イエス・キリストのことを証言し始めました。

 これは、教会が誕生した瞬間であると同時に、教会の内に「違い」が生まれた瞬間であるとも言えるのではないでしょうか。さまざまな言葉で話し始めたということは、そこに違いが生じ始めているということです。と同時に、お一人なるイエス・キリストについて証をしています。証の仕方は違いがありつつ、同じイエス・キリストを指し示している点において一致しています。

 

 聖霊はそのように、私たちに違いを与える働きをしてくださる方であると受け止めることができます。聖霊による役割分担です(ローマの信徒への手紙1268節、コリントの信徒への手紙一12411節、2831節、エフェソの信徒への手紙411節など)。聖書は、私たち一人ひとりに与えられたこの固有の役割を「賜物」という言葉で呼んでいます(ギリシア語でカリスマ)。ただ「違いが存在している」というだけではなくて、そこに「かけがえのなさ」を見出しているのが特徴です。かけがえがないとは、替わりがきかないということです。私たち一人ひとりに、神さまから、かけがえのない、替わりがきかない役割が与えられています。私たちはそれぞれ、かけがえのない役割を果たすことで、互いに補い合い、同じ一つのキリストの体を造り上げていっているのです。

 

 ペンテコステは教会の誕生日であると述べました。ペンテコステは、「違いがありつつ、一つ」であるキリストの教会が誕生した日だとも受け止めることができるのではないでしょうか。

 

 

 

和解と一致のために

 

 私たちはそれぞれが、かけがえのない役割を果たしながら、互いに補い合っている関係性にある――。これが神の目から見た私たちのまことの関係性であることをご一緒に心に留めたいと思います。

 

 私たち教会は、これまでの歴史において、多くの場面において、その真理を見失ってきました。自己を絶対化し、自分たちとは異なる他者を否定し、攻撃することをくり返してきました。ペンテコステ礼拝をささげる今日、私たち一人ひとりに聖霊からかけがえのない役割が与えられていることを、今一度ご一緒に思い起こしたいと思います。

 

私たち一人ひとりがこのことを思い起こし、互いの違いを受け入れ合い、補い合い支え合って、共に生きていこうとするとき、引き裂かれたキリストの体は再び一つに結び合わされてゆくのだと信じています。そうしてそのことが、この地に平和をもたらすことにつながってゆくでしょう。

 

 

復活され、天に昇られたイエスさまはいまも、私たちのその和解と一致のために祈ってくださっています。そうしていまも、私たちのもとに聖霊をお送りくださっています。聖霊を受け、その力に満たされ、和解と一致のために、自分にできることを果たしてゆきたいと願います。