2026年4月12日「あなたがたに平和があるように」
2026年4月12日 花巻教会 主日礼拝説教
「あなたがたに平和があるように」
復活節
先週の4月5日(日)、イエス・キリストの復活を記念してイースター礼拝をおささげしました。先週から教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活節は、イエス・キリストのご復活を心に留め、共に復活の命を希望として歩む時期です。本日は復活節第2主日礼拝をおささげしています。
新しい年度が始まって2週間近く経ちました。岩手もちょうど桜が満開になりましたね。
この春より新しい環境で生活を始めた皆さんの上に、神さまの祝福とお支えがありますようお祈りしています。
家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち
先週は礼拝の中で、ヨハネによる福音書20章1-18節をご一緒にお読みしました。イエス・キリストが十字架刑によって亡くなった3日目の朝、イエスのお墓の前で、マグダラのマリアがよみがえられたイエスと出会う場面です。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書20章19-31節はその続きです。本日の場面では、イエスさまの12弟子たちにスポットが当てられています。
マグダラのマリアは最後までイエスさまに付き従い、その最期――十字架の死と埋葬を見守りましたが、これらの男性の弟子たちは違いました。彼らは途中でイエスさまを見放して、逃げてしまったのです。ですので、彼らはイエスさまの十字架上の最期は見ていません。
イエスさまが復活されたその日の夕方、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。自分達もまたイエスさまのように連行されるのを恐れて、家の中に隠れていたのです。恐れにとらわれていた彼らでしたが、彼らの胸の内には恐れだけではなく、激しい罪悪感も渦巻いていたでしょう。一番大切な存在、愛するイエスさまを見捨ててしまったことの罪悪感です。イエスさまがその後、十字架刑によって処刑されてしまったことはもちろん彼らも伝え聞いていたことでしょう。自分たちは何という取り返しのつかないことをしてしまったのか。激しい後悔と罪の意識にとらわれ、彼らは家の中に閉じこもっていたのではないかと想像します。「もうすべては終わってしまった」、そのような想いの中で、皆沈黙して座り込んでいたのではないでしょうか。
手と脇腹の傷痕
そこへ、よみがえらえたイエス・キリストが現れます。彼らの真ん中に立たれたイエスさまの第一声は《あなたがたに平和があるように》でした(19節)。イエスさまの第一声が弟子たちに対する怒りや恨みの言葉ではなく、平和を祈る挨拶であったところに心が打たれます。
《あなたがたに平和があるように》、イエスさまはそう言って、手と脇腹をお見せになりました。なぜ手と脇腹なのでしょうか。
キリスト教では伝統的に、よみがえられたイエスさまのお体には十字架の傷痕が残っていると受け止めてきました。絵画でも復活のキリストの手と脇腹には傷痕が描かれることが多いですね。手の傷痕は十字架にはりつけにされる際、釘を打ち込まれた時の痕、脇腹の傷痕は兵士から槍で突かれた時の痕です。ここでイエスさまは弟子たちにその手と脇腹の傷痕をお見せになったのだと受け止めることができるでしょう。
赦しのメッセージ
ではなぜ、イエスさまはその傷痕をお見せになったのでしょうか。このジェスチャーは何を意味しているのでしょうか。
手と脇腹に刻まれた傷痕は、イエスさまの十字架のお苦しみを象徴しているものです。また、イエスさまを見捨てた弟子たちの罪、イエスさまを死に追いやった私たち人間の罪を象徴するものです。イエスさまはここで、ご自分の苦しみと人間の罪を象徴する傷痕をあえてお見せになっています。その傷痕をあえてお見せになることによって、イエスさまは弟子たちを「赦している」ことをお伝えになったのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。その傷痕をはっきりと見せることを通して、赦しのメッセージを伝えてくださったのだ、と。
私たちは心に傷を負ったとき、それを隠してしまうものではないでしょうか。もしその傷を明らかにしようとすれば、内に秘めている激しい痛みや怒りも湧き上がってきてしまうからです。どんな怒りの言葉や恨みの言葉を発してしまうか分からないからです。ですので、普段、私たちは負った傷をなるべく隠すようにしています。
しかし本日の場面において、イエスさまはご自分の傷を隠すことはなさいません。隠していないということは、ゆるしていることにつながっています。自分に深い傷を負わせた弟子たちに、その傷跡をはっきりと見せることを通して、イエスさまは赦しのメッセージを伝えてくださった。だからこそ、弟子たちはそのイエスさまのお姿を見て喜んだのではないでしょうか(20節)。
イエスさまは重ねて次のようにおっしゃいました。《あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす》(21節)。神さまがイエスさまをお遣わしになったように、今度は、イエスさまが弟子たちをお遣わしになる。ここで終わりなのではない。ここからが、はじまりである。「もうすべては終わってしまった」と絶望していた弟子たちに、イエスさまは新しい使命を与えてくださったのです。
聖霊の息吹を受けて
イエスさまはそうおっしゃってから、彼らに息を吹きかけて言われました。《聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る》(22、23節)。
ここでも、イエスさまは弟子たちに息を吹きかけるという、不思議な動作をなさっていますね。息を吹きかける動作は、創世記のアダムの創造の場面を思い起こさせるものです。《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった》(創世記2章7節)。
息を吹きかけるという動作は、イエスさまが弟子たちに命の息=聖霊を吹き込んでくださったと受け止めることができるでしょう。イエスさまから聖霊の息吹を受け、その赦しを受け、弟子たちは新しく生きる者となりました。家の戸に鍵をかけ座り込んでいた弟子たちは、再び立ち上がる力を与えられました。イエスさまによって外の世界へ、新しい世界へと押し出されてゆきました。そうして誕生していったのが、キリスト教です。
赦すことの難しさ
最後のイエスさまの言葉、《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る》。この言葉は、私たちにとって、難しい言葉でもありますね。私たちは人の過ちがなかなか赦せません。またそして、自分自身の過ちも赦すことができません。
私たちが毎週礼拝の中でお祈りする主の祈りの中には、《我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ》という祈りがあります(口語訳バージョンでは《わたしたちに罪を犯した者を ゆるしましたから、わたしたちの犯した罪を おゆるし下さい》)。この主の祈りでも、まず自分から相手の罪を赦すことが言われています。
赦すことができないから苦しいのであって、簡単に赦すことができるのであれば、そもそも私たちは苦しむことはありません。特に、自分に対してひどいことをした相手を赦すことは、私たちにとって難しいことですね。赦せない心は重荷のように私たちにのしかかり、私たちの日々の生活に暗い影を落としてゆきます。
赦してはいけない不正義
もう一つ、赦しに関して私たちが疑問に思うことは、私たちの世界には赦してはいけない不正義があるのではないか、ということです。現在のイスラエル軍とアメリカ軍による暴挙は赦してよいものでしょうか。無関係の市民の命と尊厳を奪い、傷つける爆撃は赦してよいものでしょうか。いいえ、決して赦すことはできないものです。中東での戦争が一刻も早く恒久的な停戦へと至るよう切に願います。
福音書は、人間の尊厳がないがしろにされている現実に対して激しく憤られたイエスさまのお姿を記しています。生命と尊厳がないがしろにされている現実を、イエスさまは決してお見過しにはなさいませんでした。イエスさまはその不正義に対峙し、私たちに尊厳を取り戻すべく働いてくださるお方です。
尊厳がないがしろにされている現実を、神は決して見過しにはなさらない――これが、旧約聖書と新約聖書全体が伝えている神の正義です。このことを踏まえます時、聖書が語る赦しとは、不正をなかったことにしたり、うやむやにして見過ごすことを言っているのではないことが分かってきます。
先ほど、キリスト教では伝統的に、よみがえられたイエスさまのお体には十字架の傷痕が残っていると受け止めてきたことを述べました。このことは、第一に、イエスさまの復活とは、十字架の死を踏まえた復活であることを示す意味があります。復活とは、イエスさまの十字架のお苦しみを経た上での復活であるのです。
また、復活のキリストのお身体に十字架の傷痕が残っていることは、無実の人を残酷な処刑の仕方で死に追いやった事実がなかったことにはされないことも意味しているのではないでしょうか。この世界で起った不正や不正義を、私たちはなかったことにはできない。その罪責は、イエスさまのお身体に刻まれ続けています。私たちが人を傷つけた事実は、なかったことにはできないのです。弟子たちがイエスさまを見捨てたという事実も、なかったことにはできないものです。弟子たちもその後、生涯をかけて、その事実に向き合っていったことでしょう。
聖書が語る赦し ~「あなたは生きていて良い」という神の声
では、聖書が語る赦しとは、どのようなものでしょうか。聖書が語る赦しとは、別の言葉で言いますと、「あなたは生きていて良い」という神さまの声を聴くことです。様々な過ちを犯してしまう私たちが、それでもなお、「生きていて良い」のだということ。その神の声が、聖書が語る赦しであるのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。
弟子たちは、取り返しのつかない過ちを犯してしまったという罪の意識の中で、座り込んでいました。「もうすべては終わってしまった」と思っていました。その弟子たちに対して、イエスさまは「それでも、あなたは生きていて良い」と語りかけてくださいました。
なかなか人を赦すことができない私たち。人を赦せない、そんな自分も、赦せない私たち。よみがえられたイエスさまは、その私たちに対して、「赦せないあなたでもいい。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさい」と招いてくださっています。
時に、とりかえしのつかないような過ちを犯してしまう私たち。「もうすべては終わってしまった」と絶望してしまう私たち。その私たちに対して、十字架の死よりよみがえられたイエスさまは、「それでも生きていて良い」のだと語りかけてくださっています。イエスさまは手と脇腹の十字架の傷痕を示しながら、聖霊の息を吹きかけながら、私たち一人ひとりに、「あなたは生きていて良い。あなたは生きていって、良い。あなたは生きよ」と語りかけてくださっています。
この愛と赦しの声が、私たちに生きる力を与えます。私たちに再び立ち上がってゆく力を与えます。聖書が語る赦しとは、私たち自身の力による赦しなのではありません。人を赦せない、自分も赦せない、むしろそれが私たちの日々の生活の率直な姿です。聖書が語るのは、そのような私たちに対する神の赦しです。そのような私たちをあるがままに包む、無条件の肯定の声です。
神の赦しと正義を私たちの内に新たに
この声に包まれる中で、私たちは少しずつ、自分の過ちや罪責にも向かい合うことができるようになってゆきます。社会の様々な罪責にも、勇気をもって向かい合うことができるようになってゆきます。イエスさまのお身体に刻まれた傷跡、その向こうにある痛みに向かい合うことができるようになってゆきます。
そのように、傷に向かい合うようになった私たちの目前に改めて立ち現れてくるのが、神の正義です。生命と尊厳がないがしろにされている現実を見過しにはしないという神の正義です。「私が生きていて良い」ということは、私の隣り人も「生きていて良い」ということ。すべての、一人ひとりが、「生きていて良い」存在であり、神の目に大切な存在であるということ。だからこそ、神は一人ひとりの生命と尊厳がないがしろにされている現実を決して見過しにはなさらないのだということに気付かされてゆきます。
私たちは現在、復活節の中を歩み始めています。復活節の中を歩む今日、この神の赦しと神の正義を今一度、私たちの内に新たにしたいと願います。
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