2026年2月22日「荒れ野の40日間」
2026年2月22日 花巻教会 主日礼拝説教
マルコによる福音書1章12-15節《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。/イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。/ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》
受難節
先週の水曜日より、教会の暦で受難節に入っています。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす期間です。受難節はイースター前日の4月4日(土)まで続きます。
受難節は四旬節とも呼ばれます。四旬とは40日を意味する言葉です。受難節は正確には46日間ですが、日曜日を除くとちょうど40日間となります。「40」は、聖書の中で度々出て来る数字です。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の出エジプト記において、エジプトを脱出したモーセとイスラエルの民が荒れ野を旅したのが40年間でした。「荒れ野の40年」という表現もありますね。
いまお読みしましたマルコによる福音書1章12-15節にも「40日間」という言葉が出て来ました。イエス・キリストが荒れ野にてサタンから誘惑を受けられる場面です。イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を授けられた後、荒れ野に40日間とどまり、サタンから誘惑を受けられました。サタンがイエスさまに「石をパンに変えてみたらどうだ」と誘惑すると、イエスさまが「人はパンだけで生きるものではない(人はパンのみで生くるにあらず)」とお答えになり、その誘惑を斥ける場面はよく知られていますね。
このイエス・キリストの荒れ野での40日間が、受難節の由来の一つとなっています。私たちもまた荒れ野でのイエス・キリストのお姿に倣おうという意味が込めているのです。荒れ野でのイエスさまのお姿に倣うとは、サタンの誘惑を斥けることのみならず、他者への愛に生きたイエスさまのお姿に倣うという意味を含んでいます。受難節のこの時、イエスさまのご受難を思い起こし、いま困難の中にいる方々のために、自分にできることを祈り求めてゆきたいと思います。
荒れ野の40日間
改めて本日の聖書箇所の前半をお読みいたします。マルコによる福音書1章12、13節《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。/イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》。
イエスさまが送り出された《荒れ野》がどの辺りであったのか、具体的な場所は定かではありません。パレスチナ南部には、死海に向かって拡がる「ユダの荒れ野」と呼ばれる一帯がありました。一年中ほとんど雨が降らない地域です。イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、このユダの荒れ野にいずこかに向かわれたのかもしれません。イエスさまはその荒れ野で、40日間に渡って、サタンから誘惑を受けられたと福音書は記します。
サタンは悪魔と同義語です。サタンは、もともとはヘブライ語で「告発する者」「敵対する者」を意味する言葉でした。聖書では、神に敵対する存在として、このサタンが登場します。
サタンからの誘惑がどのようなものであったか、マルコによる福音書は詳しくは記していません。マタイによる福音書やルカによる福音書においては、サタンとのやり取りが詳しく記されています。「石をパンに変えてみたらどうか」というサタンの誘惑はマタイ福音書とルカ福音書に書かれているものなのですね。マルコによる福音書は簡潔に、《イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた》(13節)とだけ記しています。同時に、マルコ福音書は印象的な一文を加えて続けます。《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた》。
《野獣》というのは野生の動物のことですが、ここでの野生動物は、人間に危害を加えるかもしれない存在としてイメージされています。狼は場合によっては人に襲い掛かるかもしれませんし、マムシは人に噛みついて体に毒をまわらせてしまうかもしれません。イエスさまは荒れ野にて、それらの危険な野生の動物といっしょにおられた、とマルコ福音書は記します。野獣の存在が記されているのはマルコによる福音書だけです。
ここでの野獣とは、一種の象徴的な存在として読むこともできるでしょう。私たちを取り囲んで危害を及ぼそうとしている何ものかの象徴、です。本日は、イエスさまを取り囲んでいたのは、野獣のイメージに象徴される、あらゆる「敵意」であったと受け止めてみたいと思います。敵意に囲まれ、その脅威にさらされることが、ここでのイエスさまにとっての試練であったと受け止めてみたいと思います。
「敵意に敵意を返す」誘惑
自分に敵意を持つ相手がいたとしたら、私たちはどのような反応をするでしょうか。おそらく、多くの場合、自分もその相手に対して敵意を持つようになるのではないでしょうか。そうして、その相手も自分にとっての「敵」となります。
敵意に敵意を返そうとしてしまうのは、私たちの防衛本能からすると当然のことでもあるかもしれません。敵意を向けられることによって、私たちの内には不安や恐れ、あるいは怒りが生じます。その相手に同じく敵意を返すことで、私たちは自分を守ろうとします。
一方で、敵対するその相手もやはり恐れから自分に敵意をもって向かってきているのかもしれません。気を付けるべきことは、そのように互いに敵意に敵意を返し続ける中で、その負の連鎖から抜け出せなくなってしまうことです。どんどん敵対関係が強められ、敵意に敵意を返す負の連鎖から抜け出せなくなってしまうのだとしたら、それは恐ろしいことです。イエスさまもこの荒れ野で、あらゆる敵意に囲まれながら、「敵意に敵意を返すように」とサタンから誘惑され続けたのだとしたらどうでしょうか。それは大変な試練であったことと思います。
しかし、イエスさまはその誘いに乗ることはなさいませんでした。敵意に敵意をもって返すことはなさらなかった。むしろ、自分に敵対する存在に対して、和解を呼びかけ続けられたのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。
イエスさまは《四十日間》、荒れ野にとどまられたと福音書は記します。四十日というのは、長い時間を象徴する表現でもあります。イエスさまは長期に渡り、忍耐強く和解を呼びかけ続けてくださった。そうして遂に、荒れ野に平和を実現してくださったのだとご一緒に受け止めたいと思います。もはや野獣たちと敵対関係になることはなくなった(イザヤ書11章1-10節)。その和解の精神の象徴として登場しているのが天使たちです。《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた》。イエスさまは長い忍耐の末に、サタンの試みに打ち勝たれました。
私たちの《荒れ野》
このように本日の聖書箇所を受け止めてみますと、《荒れ野》という場所もまた、一つの象徴として受け止めることができると思います。荒れ野とは、敵意に満ちている場所、そうして互いの関係が断絶されてしまっている場所、その象徴として受け止めることができるでしょう。そして、その荒れ野を棲み家として、私たち人間が互いに敵対し合うように働きかけている力がサタンです。
そのように受け止め直してみますとき、荒れ野とはどこにでも出現し得る場所であるということができます。私たちが互いに敵意をもって相対するとき、そこに荒れ野は出現しています。いまの私たちの社会を見てみますと、いかに多くの荒れ野が出現してしまっていることでしょうか。互いに敵意を持ち、関係が分断されてしまっている状態が数多くあります。個人と個人において、組織と組織において、国家と国家において、またあるいは、キリスト教会において――。残念ながら、近くに遠くに、至るところに《荒れ野》が出現しているというのが、いまの私たちの社会の現状です。
《敵意という隔ての壁》を取り壊し
新約聖書のエフェソの信徒への手紙に次の言葉があります。《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました》(2章14-16節)。
ここでもやはり、敵意が私たちを互いに隔てるものとして語られています。《敵意という隔ての壁》という印象的な言葉が使われていますね。私たちを互いに隔てているのは他ならぬ、私たちの内に存在する敵意であると言われています。この手紙の言葉の背景には、具体的には、律法を持つユダヤ人キリスト者と律法を持たない異邦人のキリスト者との間の分断があります。律法の有無ということが重大問題としてあるわけですが、しかしそれ以上に、互いの内にある敵意こそが、断絶を生む根本的な要因となっていたことが指摘されています。
敵意は私たちの内から生じ、いつしか私たちを拘束し、支配していってしまうものでもあります。気づかないうちに私たち自身が自らの内の敵意に支配されてゆく。敵意が自分を動かす原動力になってゆき、まるで敵対すること自体が目的であるかのようになってゆきます。
エフェソの信徒の手紙は、イエス・キリストが十字架によって、私たちの敵意を滅ぼしてくださったと語ります。イエスさまはご自分の生き方を通して、十字架にかけられたご自分の体を通して、《敵意という隔ての壁》を取り壊してくださいました。そうして敵意ではなく、最も大切な事柄を私たちに示してくださいました。それは、神の愛です。
私たちの内にある敵意よりもっと深く、力ある、確かなもの、それは神さまの愛です。私たちが土台に据えるべきものは敵意ではなく、神の愛であることをイエスさまは示してくださいました。
神さまの愛を根底に据える
イエスさまは荒れ野に向かわれる前、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時、天から《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声が聞こえた、と福音書に記されています。イエスさまはこの神さまの愛を御自分の根底に据え、その上で、荒れ野に向かわれました。イエスさまが荒れ野にてサタンの試みに打ち勝つことができたのも、この神さまの愛が土台としてあったからでありましょう。
敵意に対して敵意を返すのではなく、暴力に対して暴力を返すのでもない。一人ひとりをかけがえのない存在として重んじてくださる神さまの愛を根底に据えること。イエスさまは私たちに、和解と平和へと至るためのその道筋を示してくださいました。いまや、私たちの《荒れ野》には、そのキリストの道がまっすぐに敷かれています(マルコ福音書1章2-3節)。
《時は満ち、神の国は近づいた》
荒れ野での誘惑に打ち勝ち、ガリラヤへ戻られたイエスさまは、神の国を宣べ伝える公の活動を始めてゆかれます。《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(14、15節)。
イエスさまが公の活動を開始するにあたって発された、このはじまりの言葉については、先月の礼拝メッセージでもお話ししました(1月18日礼拝メッセージ参照)。ここでの「神の国」とは、ある特定の国家を指すものではありません。神さまの愛のご支配が満ち満ちている場が、神の国です。時が満ち、この神の国が近づいていることをイエスさまは宣言されました。
私自身はこの神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つも見失われないこと」と「違いがありつつ、一つであること」の意味を込めています。
神さまの愛のもとで、一つひとつの存在が、一つも見失われることなく、かけがえがない=替わりがきかないものとして、包摂されている世界。一つひとつの存在が、互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。そのように、《敵意という隔ての壁》が取り壊され、神さまのまことの平和(シャーローム)が実現されている世界。
それは、過去‐現在‐未来のすべての時を内包する、「いまこの時」において立ち現れる、新しい世界の在り方です(参照:大貫隆先生『イエスという経験』、岩波現代文庫、2014年)。この新しい世界の在り方においては、神さまの愛の中で、すべての、一つひとつの存在が極めて「良い」(創世記1章31節)ものとして、無条件の肯定のもとに置かれています。
私たちはこの神の国の福音に心を向け、イエスさまが歩まれたその道を共に歩んでゆくよう招かれています。
《国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない》
神の国の平和が私たちの間に実現されてゆくのには、長い時間がかかるものかもしれません。荒れ野一面に花が咲く(イザヤ書35章1、2節)のはまだ先のことかもしれません。イエスさまご自身もかつて《荒れ野》にて、長い時間をかけた闘いを経験されました。イエスさまは長い闘いを経て、そこで、まことの平和を実現してくださいました。敵意を滅ぼし、神の愛による平和を実現してくださいました。私たちは、イエスさまによって示されたこの神の愛の力を信じています。神の国の福音の力を信じています。私たちがこの神の力に信頼を置き、忍耐強く歩む時、その足元に神の国が少しずつ芽吹き、花開いてゆくことでしょう。
最後に、預言者イザヤの言葉をお読みいたします。イザヤ書2章4-5節《主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。/ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう》。
私たちはもはや、剣を上げて戦うことは学ばない。一人ひとりをかけがえのない存在として愛されたイエスさまのお姿にこそ学び、イエスさまが歩まれたその和解と平和の道を歩んでゆきたいと願います。
日本キリスト教団
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