2026年3月15日「山上の変容」

2026315日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書9210

山上の変容 

 

 

東日本本大震災と原発事故から15

 

先週311日、東日本大震災と原発事故の発生から15年を迎えました。国内外で祈りがささげられたことと思います。私も当日は花巻ユネスコ主催「鎮魂と復興の鐘を鳴らそう」に参加し、午後246分のサイレンに合わせて共に黙祷をささげ、市役所前の鐘楼にて交替で一人ひとり鐘を突きました。

 

震災から15年が経ちましたが、いまも多くの方が困難の中、深い悲しみ、痛みの中にいます。38日に行われた奥羽教区主催の東日本大震災15年を覚えての礼拝では、新生釜石教会牧師の柳谷雄介先生が震災の経験を振り返りながら、メッセージをお話くださいました(奥羽教区YouTubeチャンネルに動画がございますので、ぜひご覧ください)。被災された方々の悲しみや痛みは消えることがありません。けれどもだからこそ、共に苦しみ、共に喜ぶ歩みを大切にしてゆきたいと改めて思わされています。

 

 

 

原発事故による放射能の影響を「なかったこと」にする社会

 

東京電力福島第一原子力発電所の事故から15年が経ちました。原発事故による甚大なる影響と被害は、いまも現在進行形で続いています。現在も多くの方が故郷を追われ、避難生活を余儀なくされています。そのような中、政府は原発回帰へと政策を急速に転換しています。まるで原発事故はすでに過去のものとなってしまったかのようです。マスメディアでも原発事故に関する報道は少なくなってきています。特に、放射能の影響についての報道は、ほとんどなされることはありません。この度の原発事故による放射能の影響を「なかったこと」にする力が、私たちの社会をすっかり覆ってしまっているかのようです。

 

たとえば、除染土を再利用する事業は、まさにそれを象徴しています。緊急に除染する必要があるから取り除いた土を、公共事業に再利用するなど、とんでもないことです。昨年9月、環境省は、除染土のうち放射能濃度が「低く(?)」(1キログラムあたり8000ベクレル以下)公共事業に再利用するものの呼称を「復興再生土」とする方針を発表しました。非常に悪質な印象操作ですね。「復興」という言葉が付けられているところに、何ともやりきれないものを感じます。

 

原発事故の発生からこの15年、「原発事故による健康への影響はない」とする見方が私たちの社会において大きな力を振るってきました。原発事故による放射線の健康被害はないものとする考え、あるいは、極めて軽微なものとして被ばくを容認する考えです。反対に、放射能への不安を口すると、「復興を妨げる」「福島への差別を助長する」「風評被害を助長する」ものとして批判される状況が続いてきました。

 

 先ほどの除染土に関しても、そもそもこの土壌は、原発事故後に放射性物質を取り除く作業において発生したものですね。「除染土」が正しい呼称であるわけですが、それを「復興再生土」と言い換えるところに、私たちの社会のこの15年の在り方が映し出されているように思います。復興の名のもとに、放射線被ばくの実害を覆い隠し、その影響を「なかったこと」にしてきた私たちの社会の在り方です。

もちろん、復興を目指してゆくことは重要なことであり、その営みはとても貴いものです。けれども、復興の名のもとに、原発事故の被害の実態が覆い隠され、現実に被害を受けている方々が沈黙へと追いやられてきたのが、この15年間であったのではないでしょうか。

 

 

 

311子ども甲状腺がん裁判

 

このような状況の中、非常に重要な裁判が行われています。20221月からなされている311子ども甲状腺がん裁判です。この裁判では、原発事故による放射線被ばくの影響で甲状腺がんになったとして、当時幼稚園から高校生の子どもであった7名の若者が、東電に対して損害賠償を求めています。原発事故による放射線被ばくの健康被害を訴える集団訴訟が起こされたのはこれが初めてのことであり、私たちの社会全体にとって、非常に重要な裁判です。これまでに計17回の口頭弁論が行われています。私も微力ではありますが、311子ども甲状腺がん裁判応援マンスリーサポーターに加わっています。

 

弁護団長の井戸謙一先生のご報告によりますと、今年の12 月からはいよいよ証人尋問が始まり、2028 年半ばに審理を終え、2029年中に判決を迎えることになるとのことです。若い原告の方々を一日でも早く救済するために、当初は2年で裁判を終えたいと考えていたそうですが、現在のペースだと判決まで早くても7年かかりそうとのことです(井戸謙一先生「裁判は大詰め~12月からはいよいよ証人尋問へ」、『311子ども甲状腺がん裁判NEWS Vol.16』所収、2026126日発行)。ご一緒にこの大切な裁判のことを祈りに覚えていきたいと願います。

 

原発事故前は小児甲状腺がんは100万人あたり12名でしたが、原発事故後、事故当時18歳以下だった福島県民38万人を対象に甲状腺検査が実施された結果、20255月現在で計399人の甲状腺がん(悪性および悪性疑い含む)が確認され、その内298名の方々が手術を受けています(参照:布田秀治先生「どこにいるのか―どこに視座を据えているのか―」、『日本キリスト教団東北教区放射能問題支援対策室いずみ ニュースレター 第25号』所収、2026211日発行)。あきらかに異常な事態が生じているわけですが、国や福島県や電力会社は原発事故との因果関係を頑なに認めようとはしません。

 

これから、放射線被ばくの健康被害が認められ、原告の皆さんをはじめ、甲状腺がん患者の方々に確かな補償がなされ、その尊厳が回復されますように。そしてそのことを通して、私たちの社会が目の前の利益や都合ではなく、一人ひとりの生命と尊厳を守ることを第一とする社会へと変わってゆきますようにと切に願います。

 

 

 

山上の変容

 

 先ほどご一緒に本日の聖書箇所マルコによる福音書9210節をお読みしました。「山上の変容(主の変容)」と呼ばれる場面です。イエス・キリストが弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネたちと共に山に登られた際、そのお姿が変わり、《服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった3節)と福音書は記します。正教会では、この山上の変容はクリスマスやペンテコステと共に、祭日の一つとして祝われているとのことです。

 

イエスさまが弟子たちと登られた高い山がどの山であるのか福音書は記していませんが、伝統的にはタボル山とされてきました。タボル山はパレスチナにある、標高575メートルのなだらかなお椀型の山です。

 

山の上でイエスさまが光り輝く中で、《エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた4節)と福音書は続けます。エリヤとモーセは、旧約聖書(ヘブライ語聖書)を代表する人物です。モーセは律法を、エリヤは預言者(預言書)を象徴しています。

この驚くべき場面を前に、思わずペトロは口をはさんでイエスさまに言います。《先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです5節)

すると、雲が現れてペトロたちを覆いました。そうして、雲の中から声がしました。《これはわたしの愛する子。これに聞け7節)。弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、もはや誰も見えず、そこにはただイエスさまだけが彼らと一緒におられました。

 

 

 

復活の光

 

 弟子たちが経験した、この不思議な山上の変容。様々な解釈が可能な箇所であると思います。イエスさまから発された光。この光は、復活の光を先どって示すものとして受け止めることもできるでしょう。十字架の死の向こうから差し込む、復活のキリストの光です。

 

 先週の礼拝では、本日の聖書箇所の直前の場面であるマルコによる福音書82733節)をご一緒に読みしました。そこでは、イエスさまがご自分の死と復活を予告する場面が記されていました。本日の場面は、先週のこの場面と密接に結びついています。先週の場面においては特にイエスさまのご受難と十字架が予告され、本日の場面ではイエスさまのご復活が予告されているのだと理解することもできます。そのことは、一同が山を下りる時のイエスさまの言葉からも汲み取ることができます。《一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。/彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った9910節)

 

受難節のこの時、イエスさまのご受難と十字架を心に留めつつ、またそして、イエスさまの復活の光を希望としつつ、共に歩んでゆきたいと思います。

 

 

 

神の国の光

 

 山の上でイエスさまから発された光。この光は、生前のイエスさまが宣べ伝えられた神の国の光として受け止めることもできるでしょう。

 

神の国は、神さまの愛のご支配が満ち満ちているところのことを指しています。私たち一人ひとりが、神に愛された、かけがえのない存在として尊重されている場が神の国です。天にある神の国が、イエスさまと共にいまこの時、地上に到来しようとしていることを福音書は語ります115節)

 

私自身はこの神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つも見失われないこと」と「違いがありつつ、一つであること」の意味を込めています。

神によって造られた一つひとつの存在が、一つも見失われることなく、かけがえがない=替わりがきかないものとして、包摂されている世界。一つひとつの存在が、互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。そのように、互いに補い合うことにより、神の平和(シャーローム)が実現されている世界。

 

この十全なる世界においては、神さまによって造られた一人ひとりの存在が決して「なかったこと」にされないことが、重要な命題となります。イエスさまは生前、神の国の実現のために、社会から見えなくされている人々のところに自ら赴き、その存在に光を当ててくださいました。一人ひとりに尊厳を取り戻すべく、働いてくださいました。

そうして、そのご生涯の最期に、十字架のおかかりになり、三日目に復活してくださいました。私たちすべての者を復活の光で照らしてくださいました。それは私たちの内の誰一人、決して失われてしまうことがないためでした。

 

このことは、言い換えますと、存在を「なかったこと」にしようとする力に対しては、徹底して抗うことを意味しています。私たち一人ひとりの存在の「かけがえのなさ(尊厳)」を奪おうとする力を、聖書は「悪霊」や「サタン」の名で呼びました。イエスさまは生前、私たちの生命と尊厳を奪おうとするそれらの悪しき力を追い出すことをご自身の務めとしてくださいました。

 

十数年前、私が十全なる世界から聴き取ったと受け止めている言葉があります。この言葉はともし火のように、いまも私の内で燃え続けています。

《存在したものが、

 あたかも存在しなかったかのようにされてしまうことが、

 ないように。

 

すべての存在が、

「そのもの」として存在し、

かつ、これからも存在し続けるように。

 

存在が、

あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、

決して、ないように》。

 

 

 

「なかったこと」にする力に抗って

 

私たちがいま生きている世界では、存在を「なかったこと」にする力が猛威を振るっています。存在しているものを、あたかも「ない」ことにしようとする悪しき力が、私たちの近くに遠くに、働いているように思います。

 

先ほど、原発事故による放射線被ばくの影響を「なかったこと」にする力が、私たちの社会を覆っている現状を述べました。放射能の影響を「なかったこと」にするということは、それによって実際に苦しんでいる人々の存在をも「なかったこと」にすることにつながります。それは、神の国の福音とは正反対のものではないでしょうか。神の国の福音とは、社会から見えなくされている人々の存在を見出し、尊厳を取り戻してくださる神の力だからです。

 

イエスさまが「なかったこと」にする力を斥けてくださったように、私たちは「なかったこと」にする力に抗ってゆかねばなりません。はっきりと目を覚ましていなければなりません。私たちにその力を与えてくれる源が、キリストの光、神の国の光です。目には見えなくても、この光はいつも私たちの共にあります。この光の中で、私たち一人ひとりが、かけがえのない、代替不可能な存在とされています。まどろみに陥ることなく、いつも目を覚まして、この光の方へ、私たちの心を向けていたいと思います。

 

 

 存在したものが、あたかも存在しなかったかのようにされてしまうことがないように、すべての存在がそのものとして存在し、これからも存在し続けることができるように、ご一緒に祈りを合わせてゆきましょう。