2026年2月15日「嵐を静めるキリスト」

2026215日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書43541

嵐を静めるキリスト 

 

 

嵐を静めるキリスト

 

 本日の聖書箇所マルコによる福音書43541節には、イエス・キリストが嵐を静める場面が記されています。よく知られた場面であると同時に、どのように受け止めたら良いのか難しい場面でもあります。この不思議な出来事は、いまを生きる私たちにどのようなことを語りかけているでしょうか。本日はそれをご一緒に聴き取ってゆきたいと思います。

 

 物語の舞台となっているのは、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖という湖です。ガリラヤ湖は上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしており、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。南北におよそ21キロというと、この花巻教会から紫波町の日詰教会までくらいの距離です。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動をすることができました。

 

イエスさまはその日、ガリラヤ湖のほとりで、弟子たちと集まって来た大勢の人々に対して、さまざまなたとえ話を語られました。「種を蒔く人」のたとえもその一つです4120節。202621日の礼拝メッセージ参照)。多くのたとえ話を交えて教えを語られたその日の夕方、イエスさまは弟子たちに向かって、《湖の向こう岸に渡ろう435節)とおっしゃいました。先ほど述べました通り、ガリラヤ湖のまわりには町が点在しており、人々は舟に乗って町から町へ移動することができました。向こう岸がどれくらい離れていたかは定かではありませんが、十数キロくらいの距離はあったかもしれません。

 

 ガリラヤ湖は夕方になると、陸から突風が吹きつけて来ることがあったそうです。弟子のペトロやヨハネたちはもともと漁師であり、夕方になってから舟を出すことの危険は当然承知していたことでしょう。しかしイエスさまの言葉に従い、イエスさまを舟に乗せたまま沖へ向かって漕ぎ出します36節)

 

すると激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどになりました37節)。それは元漁師であったペトロたちさえも恐怖を覚えるほどの嵐であったようです。しかし、イエスさまは舟の後ろの方で枕をして眠っておられました。たまらず弟子たちはイエスさまを起こして、助けを求めます。《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか38節)

起き上がったイエスさまは風を叱りつけ、湖に向かって、《黙れ。静まれ》とおっしゃいました。すると風はやみ、湖はすっかり穏やかになりました39節)

イエスさまは驚く弟子たちに《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》とおっしゃいました40節)。弟子たちは非常に恐れ、《いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか》と囁き合いました41節)

 

 

 

イエス・キリストへの信仰・信頼

 

 嵐の中でイエスさまに助けを求めた弟子たちに対し、イエスさまは《なぜ怖がるのか。まだ信じないのか》とおっしゃいました。ここで「信じる」と訳されている語は、「信頼」という意味も持っている言葉です。よって、イエスさまのこの言葉を、「なぜ怖がるのか。まだ信頼を持っていないのか」と訳すこともできます。

このイエスさまの言葉からも、本日の物語においては信頼が大切なテーマの一つとなっていることが分かります。突風が起こり、恐怖を覚える中で、弟子たちは信頼を見失ってしまいました。ではどなたに対する信頼でしょうか。一つはもちろん、イエスさまに対する信頼です。もう一つは、イエスさまが宣べ伝えておられる神の国の福音に対する信頼です。

 

この物語を記した福音書記者のマルコは、どんな大変な状況であっても、イエスさまとイエスさまが宣べ伝える福音に対する信仰・信頼を失わないようにしよう、と読む者に呼びかけているのでしょう。

 

マルコによる福音書は、何らかの緊迫した状況に置かれたキリスト教徒に向けて書かれた書であると考えられています。当時、教会に対する様々な誹謗中傷や攻撃、迫害が生じていたのかもしれません。そのような困難な状況の中にあって、人々は自分たちの教会を「舟」に重ね合わせて――実際、舟は伝統的にキリスト教会のシンボルとされてきました――、舟を翻弄する「嵐」を、いま直面する苦難と重ね合わせて読んでいたのではないかと思います。自分たちは現在、嵐のような状況の中にいるけれども、イエスさまが必ずやこの嵐を静めてくださる。苦難の中から救い出してくださる。だから、勇気を出そう――そのように、この物語から生きる力を得ていたのではないかと想像します。

 

 いまを生きる私たちにとって、嵐とはどのようなものでしょうか。私たちもまた、弟子たちが遭遇した嵐に、現在私たちが直面している状況を重ね合わせることができるでしょう。いまを生きる私たちも、様々な、嵐のような現実に直面しています。その中で、時に信頼が揺らいでしまう、それが私たちの率直な姿です。嵐の中で取り乱す弟子たちの姿は、私たち自身の姿であるでしょう。

 

 

 

危機を危機としてはっきりと認識すること

 

 嵐の中で自分の信仰・信頼が揺らいでしまう、それが私たちの率直な姿です。一方で、どんなことがあっても自分は「揺らがない」と言う人がもしいれば、それは何かを誤魔化している場合があるかもしれません。とこしえに揺らぐことがないのは神さまご自身であって、私たち自身は様々な状況を前にして揺らぎ続けるものです。むしろ、私たちは揺らぐべきことには、はっきりと揺らぐべき時もあるのではないでしょうか。「揺らがない」と言い張ることで、目の前の困難な現実を直視しないでいようとする場合もあると思うからです。

 

本日の物語において、イエスさまに懸命に助けを求めた弟子たちは間違っていたのかというと、必ずしもそうではないでしょう。弟子たちは危険を察知し、それをイエスさまに伝えました。その意味で、弟子たちは危機を認識する「見張り」としての役割を果たしたことになります。信頼を見失っていたという点においては、確かに弟子たちは不信仰であったと解釈できるかもしれません。と同時に、危機を察知しイエスさまに助けを求めた点において、弟子たちは間違ってはいなかったとも言えます。むしろ「危機を危機としてはっきりと認識する」この弟子たちの姿に、いまを生きる私たちは何らかのメッセージを読み取ることができるのではないかと思います。

 

 本日の物語において、もしも弟子たちが「イエスさまが共にいてくださるから、何もしなくて大丈夫だ」と楽観して、風や波の様子にもまったく気を配っていなかったとしたらどうでしょうか。イエスさまに助けを求めるタイミングがより遅くなり、彼らを取り巻く状況は、さらにその深刻さを増していたかもしれません。

 

本日の聖書箇所は、信仰の名のもとに目の前にある現実を見ないようにするために利用されてしまう危険性がある箇所でもあると言えます。いま直視するべき現実があるのに、「自分たちには信仰があるから大丈夫だ」と言ってそこに目を向けないならば、大変な状況を招いてしまうことになりかねないでしょう。イエスさまに信仰・信頼を置くことと、目の前の現実に危機感を覚えることは矛盾するものではありません。

 

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)のエレミヤ書には、国が危機的な状況にあるのにその危機の現実を見ようとせず、「平和、平和」と唱える偽りの預言者たちの姿が記されています。《彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う(エレミヤ書614節)。目の前の危機的な状況を認めることなく、ただ「神の平安」だけを強調している者は「偽預言者」であるとの厳しい言葉が記されています。このエレミヤの批判の言葉は、いまを生きる私たちに向けられた言葉としても受け止めることができるでしょう。

 

 神さまへの信仰・信頼を大切にすると共に、私たちは目の前の現実と対峙することも必要です。受け止めるべき現実があるのに、「神さまが共にいてくださるのだから、何もしなくても大丈夫」と無関心でいる内に、大変な事態を招いてしまうことがあるでしょう。イエスさまに全幅の信頼を置くことと、目の前の現実に危機感を覚えることは、矛盾するものではありません。

 

 

 

目の前の現実に対峙する

 

以上述べましたことを踏まえて改めて本日の物語における弟子の姿を見ますと、そこにむしろいまを生きる私たちへのヒントを見出すことができるように思います。

 弟子たちはいま目の前にある危機的状況をはっきり認識しました。その危機意識の中で、《先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか38節)とイエスさまに助けを求めます。「おぼれる」と訳されている語は「滅ぶ」という意味もある言葉です。弟子たちは、「自分たちは滅んでしまうのではないか」という深刻な危機意識の中で、イエスさまを呼び求めたのだということが分かります。

 

弟子たちが迫りくる嵐の中で自分たちの危機をはっきりと認めたように、私たちもまた、目の前の現実に目を向ける必要があります。その現実は、深刻な現実、場合によっては危機的な現実であるのかもしれません。しかし、勇気をもって対峙することが求められています。そして、私たちに現実に向き合うその力を与えてくださるのがイエスさまその方であり、イエスさまが宣べ伝える神の国の福音です。

 

 

 

神の国の福音

 

イエスさまが宣べ伝える神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、神の願い、またそして神の愛が満ち満ちている場が、神の国です。時が満ち、この神の国が近づいていることをイエスさまは宣言されました。

 

私自身はこの神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つも見失われないこと」と「違いがありつつ、一つであること」の意味を込めています。

神によって造られた一つひとつの存在が、一つも見失われることなく、かけがえがない=替わりがきかないものとして、包摂されている世界。一つひとつの存在が、互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。そのように、互いに補い合うことにより、神の平和(シャーローム)が実現されている世界。

それは、過去‐現在‐未来のすべての時を内包する、「いまこの時」において立ち現れる、新しい世界の在り方です(参照:大貫隆先生『イエスという経験』、岩波現代文庫、2014年)。この新しい世界の在り方においては、すべての、一つひとつの存在が、あるがままに、極めて「良い」(創世記131節)ものとして、無条件の肯定のもとに置かれています。この在り方を私は「十全なる世界の在り方」と形容し、生前のイエスさまが宣べ伝えてくださった神の国についての私なりの説明としています。

 

この十全なる世界においては、神さまによって造られた一人ひとりの存在が決して「なかったこと」にされないことが、重要な命題となります。別の言い方をしますと、存在を「なかったこと」にしようとする力に対しては徹底して抗うことを意味しています。イエスさまは生前、私たちの生命と尊厳を奪おうとする悪しきと力と対峙し、はっきりと「否」を宣言してくださいました。《黙れ。静まれ》と――。

そして十字架の死よりよみがえられたイエスさまはいまも私たちと共にいてくださり、神の国の福音の力を与え続けてくださっています。

 

 

 

消えることのない光

 

 私たちが暗闇であると思ってもなお、消えることのない光があります。そこにおられるのが、イエス・キリストその方です。私たちが真っ暗だと思っても、なおそこにともる、微かな光があります。それが、イエス・キリストの光であり、神の国の光です。

どのような状況にあっても、たとえ嵐のような状況が私たちを取り囲んでいたとしても、イエスさまは必ず共にいてくださいます。イエスさまはあらゆる荒ぶる力から私たちを守ってくださり、それを鎮めてくださるでしょう。そうしていつの日か、私たちのもとに和解と平和をもたらしてくださるでしょう。ですので、私たちはこの方を希望の光として、勇気をもって、一歩一歩、歩んでゆくことができます。解決策が見つからず、なかなか答えが見えない状況の中でも、何とか持ちこたえて、生き抜いてゆくことができます。

 

 

どうか私たちがいま目の前にある現実から目を背けることがありませんように。イエスさまが私たちにその力と勇気をお与えくださいますように。そして、消えることのないイエスさまの光への信頼を私たちが見失うことがありませんように、ご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。