2026年4月5日「イースターの朝」

202645日 花巻教会 主日礼拝(イースター礼拝)説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15111節、ヨハネによる福音書20118

イースターの朝

 

 

 

イースター礼拝

イースターおめでとうございます。本日はイエス・キリストの復活を記念し、ご一緒にイースター礼拝をおささげしています。今日は45日、新しい年度の最初の礼拝がイースター礼拝となりました。

 

 花巻教会の中にも、この4月より、新しい環境で学生生活やお仕事を始められる方々がいらっしゃいます。新しい環境で生活を始められる皆さんの上に、神さまの祝福とお支えをお祈りしています。

 

 

 

《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです》

 

 先ほど礼拝の中で、本日の聖書箇所の一つであるコリントの信徒への手紙一15111節をご一緒に読みました。コリントの信徒への手紙一15章はイエス・キリスト復活について記している代表的な箇所の一つです。手紙の著者はパウロという人です。改めて、3節から5節までを読んでみましょう。

 

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。/すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、/葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、/ケファに現れ、その後十二人に現れたことです》。

 

短い文言ではありますが、この文章の中に、キリスト教信仰の核心が記されています。ひとつは、聖書に書いてある通り、イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んだこと。墓に葬られたことは、イエス・キリストが十字架の上で亡くなったことが確かな事実であることを示しています。

 

もうひとつは、イエス・キリストが三日目に復活されたことです。このコリントの信徒への手紙一15章では特に、二つ目の復活の信仰について詳細に語られています。「ケファ」とは、12弟子のひとりペトロのことです。ペトロをはじめとする12人の弟子たちは、キリストの復活のその目撃者となりました。弟子たちの前に現れたことは、イエス・キリストの復活が確かな事実であることを示しています。

 

 ここでご一緒に注目してみたいのは、3節冒頭の《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです》という言葉です。イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして三日目に復活されたこと、この二つのことを最も大切なこととしてパウロは記しているわけですが、その信仰はパウロ自身も「受け取った」ものだと言うのです。信仰の先輩たちから、リレーのバトンを受け取るようにして受け取ったものが、ここで記されている《最も大切なこと》――イエス・キリストの十字架と復活への信仰です。

 

 

 

イースターの朝 ~手渡される復活の信仰のバトン

 

続く箇所では、12弟子に続き、さらに多くの弟子たちが復活のキリストと出会ったことが記されています。手紙の著者パウロもまた、自分は復活のキリストに出会った最後の一人であると語っています。

 

次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。/次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、/そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました6-8節)

 

 このように、生前のイエスさまあるいは復活のキリストと直接出会い、召命を受けた人々を、聖書特有の言葉で「使徒」と呼びます(特にルカ福音書と使徒言行録)。リレーでたとえると、第一走者ですね。第一走者の使徒たちが手渡してくれた復活の良き知らせ(=福音)は、その後、人から人へと、大切に手渡されてゆきます。

 

ちなみに、本日のパウロの手紙では、復活のキリストに最初に出会ったのがペトロ、次に出会ったのが12人の弟子たちとなっています。一方、先ほどご一緒にお読みしたヨハネによる福音書では、マグダラのマリアという女性の弟子が最初に復活のキリストと出会ったと記されています(ヨハネによる福音書2011-18節)

 

イースターの朝。イエスさまが葬られた墓へ向かったマグダラのマリア。マリアは、イエスさまが葬られた墓の中が空になっていることに気付きます。誰かがイエスさまのご遺体を持ち去ったと思いこんだマリアは、墓の前で涙を流します。朝の光が差し込む中、マリアは自分の後ろに誰かが立っているのに気づきます。その人は、マリアに言われます。《婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか(ヨハネによる福音書2015節)。マリアは最初はその方がイエスさまであることに気付かず、園丁だと思っていました。しかしイエスさまが《マリア16節)とマリアの名を呼ばれると、マリアはハッと振り向いて、目の前に立っておられるのがイエスさまだと気付きます。

マグダラのマリアと復活のキリストの出会い。マリアは復活のキリストと出会った後、弟子たちのもとへ走り出します。マグダラのマリアが最初に復活のキリストと出会い、それを弟子たちに伝えるために走り出したのが、すべての始まりとなりました(あるいは、マグダラのマリアをはじめとする女性たち)。であるとすると、一番初めの使徒、真の第一走者はマグダラのマリアであることになるでしょう。

 

いずれにしましても、そうして復活の信仰のともし火はこの2000年近く、人から人へと伝え続けられてきました。バトンを手渡すように、途切れることなく手渡され、そしていま、私たちのもとにも届けられています。

 

 

 

使徒たちの信仰を自分たちの信仰として

 

本日はイースター。イエス・キリストの復活は、キリスト教信仰の核心部です。一方で、キリスト教の信仰で最も不思議に思えるもの、最も理解しがたく思えるものも、復活であるかもしれません。

 

 私たちはかつての使徒たちのように、十字架の死より復活されたイエス・キリストに直接出会ったわけではありません。すなわち、復活のキリストが生前と変わらぬお姿で現れて話しかけてくださったり、一緒に食卓についてくださったり(ルカによる福音書2413-35節)、目の前で焼いた魚を食べてくださったり(同36-43節)という直接的な経験をしているわけではありません。もしそのような体験をしたら、私たちは即座に復活を真実として受け入れることでしょう。

 

もちろん、中には復活のキリストと直接出会ったという、神秘的な体験をした方もいらっしゃるでしょう。ただし、ほとんどの人は、必ずしもそのような直接的な経験はしていません。ですので、時に復活ということが信じられなくなったり、その意味がよく理解できない心境になったとしても、むしろ当然のことだと言えるのではないでしょうか。私たち自身は直接的な経験をしていないのだとしたら、時に確信が揺らぐことがあっても、少しもおかしなことではありません。

 

そのように時に揺れ動きながらも、いまも多くの人々が、復活を真実のこととして受け入れ、自身の信仰としています。聖書に記された使徒たちの経験を真実のこととして受け入れ、使徒たちの経験を自分たちの経験としています。使徒たちの信仰を自分たちの信仰として、大切に受け継いでいます。

 

 

 

復活の信仰は人との出会いを通して与えられる

 

復活に関して私が考えることは、復活の信仰は多くの場合、人との出会いを通して与えられるものなのではないか、ということです。誰かからバトンを手渡されるようにして、私たちの心にともされてゆくもの。誰かとの出会いを通して、私たちの心に芽生え、育まれてゆくもの、それが復活の命の希望ではないかと思います。

何か直接的・神秘的な経験をして信仰を得るというのことも素晴らしいことですが、一方で、人との出会いを通して、私たちの心に復活の希望の光がともされることがあります。それもまた、一つのかけがえのない復活の体験なのだと思います。復活のキリストは見える形で、直接的に私たちの前に現れてくださらないのだしても、人との出会いを通して、人とのふれあいを通して、またそして別れを通して、私たちの前に確かに現れてくださり、働いてくださっているのだと私は受け止めています。たとえ目には見えなくても、いまも生きて働いてくださっているのです。

 

皆さんもそのような経験をくり返して来られたのではないでしょうか。愛する人々の存在を通して、その人生を通して、復活の命の希望が心にともされる、という経験を。「死はすべての終わりなのではない」という感触が与えられた経験を――。

 

 

 

柳谷明先生の祈りの言葉

 

 私は牧師として働く中で、葬儀を執り行う務めを与えられることがあります。大切な方との別れは大変悲しいものでありますが、同時に、ご葬儀を執り行う過程の中で、「この地上での別れは永遠の別れではない」との確かな感覚が改めて与えられる瞬間があります。召された方の人生を通して、またそのご家族やご友人の言葉を通して、復活のキリストがいま確かに生きて働いてくださっていることの実感が与えられるのです。牧師として復活の希望を語る務めがあるはずの私が、むしろ希望を与えられる経験をいたします。

 

 2015年の11月、牧師を隠退後に花巻教会の礼拝に出席くださっていた柳谷明先生のご葬儀が執り行われました。私が前夜式と葬儀の司式を務めさせていただきました。

 前夜式が執り行われる前の日、ご家族より、明先生が闘病中に記された祈りの言葉を見せていただきました。それは、キリスト教雑誌『信徒の友』の巻頭ページのために書かれた祈りの言葉でした。先生は12月号までは執筆されていましたが、翌年の1月から3月号の執筆はまだ終えられていなかったそうです。天に召される一か月前、緩和ケア病棟に入院されたとき、意識がはっきりとしているときを見極め、残りの1月から3月分の祈りを書き終えられたとのことです。最後の3月号に先生が記されたのは、東日本大震災の被災地についてと、そして復活の希望についての祈りでした。以下、『信徒の友』に掲載された祈りを読ませていただきます。

 

《神さま

東日本大震災から丸5年が経ちました。(略)

 仮設暮らしの人がまだまだいるのに、

支援の手は細くなっていくばかりです。

 イエスさまの十字架上での絶望の声が重なります。

 

 そのイエスさまを、父なる神さまが復活させられました。

 神さまが、私たちを見捨てることはありません。

 私たちに主と同じ復活の命を与えてくださいます。

 たとえ死の迫る老人、病人であっても。

 ですから、私が死んでも泣いてほしくありません。

 

 神さま、約束の朝を来たらせてください》(『信徒の友 2016.3』、日本キリスト教団出版局、20163月)

 

この祈りに触れた時、私は明先生がその祈りの言葉を通して、また、ご生涯を通して、私たち一人ひとりに復活の命の希望を手渡してくださったことを感じました。そのともし火はいまも、私の内にともり続けています。

 

 

 

復活の命の希望を胸に

 

 本日はイースター。使徒たちから手渡された信仰のともし火は大切に受け継がれ続け、いまここに集った私たち一人ひとりの内にともされています。目には見えなくても、イエスさまはいま生きておられ、私たちと共にいてくださっています。私たち一人ひとりを、ご自身の復活の命と結び合わせてくださっています。地上での生涯を終えた後も、私たちはキリストの永遠の命の中を共に生き続けるのだと私たちは信じます。

 

復活の命の希望を胸に、新しい年度も、共に支え合いながら歩んでゆきたいと願います。