2026年1月4日「神殿での少年イエス」
2026年1月4日 花巻教会 主日礼拝説教
新しい年のはじめ、皆さんとご一緒に主日の礼拝をおささげできますことを感謝いたします。今年一年、皆さんの上に神さまの祝福とお支えがありますようにお祈りいたします。
本日は、岩手県宮古市にあります宮古教会の皆さまとオンラインでつないで、ご一緒に礼拝をおささげしています。同じ岩手地区での主に在るつながりに感謝です。宮古教会の皆さまの上にも神さまの祝福が豊かにありますようお祈り申し上げます。
1月1日、能登半島地震から2年を迎えました。地震が発生した午後4時10分、石川県をはじめ、各地で祈りがささげられました。2024年の元旦に起こったこの地震では、災害関連死を含め698名の方々が亡くなりました。また、同年9月に発生した能登半島豪雨では、関連死を含め20名の方々が亡くなりました。いまも多くの方が困難の中、悲しみの中にいらっしゃいます。被災された方々を覚え、引き続き、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
また昨年2025年は、大船渡市山林火災をはじめ、国内外で様々な災害が発生しました。被災された方々を覚え、共に祈りを合わせてゆきたいと思います。
12歳の少年イエス
先ほど、本日の聖書箇所であるルカによる福音書2章41-52節をお読みしました。イエス・キリストが12歳のときのエピソードです。イエスさまが神の国の福音を宣べ伝える公の活動を開始されたのは、30歳頃でした。それ以前のエピソードは、ほとんど福音書には記されていません。30歳になられるまで、どのような子ども時代を過ごし、どのような青年時代を過ごされたかは記されていないのですね。本日のルカによる福音書の2章は、少年時代のイエスさまについて記されている、珍しい箇所です。ある意味貴重な箇所ですね。
本日の聖書箇所では、イエスさまは12歳。12歳というと、日本では小学校6年生または中学1年生くらいの年齢です。ユダヤ教では伝統的に、13歳になると成人男性の仲間入りをするとされてきました。13歳となった少年は「バル・ミツヴァ(アラム語で『掟の子』の意味)」として、大人同等の宗教的な責任を負うようになります。日本では2022年から成人対象者が18歳に引き下げられましたが、それでも日本と比べると、かなり早い年齢ですね。12歳のイエスさまはまだ大人の仲間入りはしておらず、その意味で、子どもです。と同時に、もうすぐ13歳になり大人の仲間入りをすることも強く意識し、「バル・ミツヴァ(掟の子)」となるための準備をしている時期でもあります。まだ大人ではない、でももう子どもでもない。ユダヤ教において12歳というのは、ちょうど子どもから大人へと変わってゆく、大切な過渡期の年齢でもあるのかもしれません。
エルサレムへの巡礼
改めて本日の聖書箇所をご一緒に振り返ってみましょう。12歳であったイエスさまは、両親のマリアとヨセフ、親戚たちといっしょに、都エルサレムへ向かっていました。過越祭に参加するためです。過越祭はユダヤ教の重要な祭りの一つです。ユダヤ教では毎年過越祭の時期にエルサレムへ巡礼に行く慣習がありました。イエスさまも毎年、マリアとヨセフに連れられてエルサレムへ行っていたようです(41、42節)。
祭りの期間が終わった、その帰り道のことでした。マリアとヨセフは、イエスさまのお姿が見当たらないことに気が付きました。過越祭には大勢の人が参加します。帰り道も大勢の人と一緒であったことでしょう。マリアとヨセフはてっきりその道連れの中にイエスさまもいるものだと思っていたのですが、一緒に来ていた親戚や知人の間を捜しまわっても、見つかりません。実は、イエスさまは両親たちと一緒には帰らず、まだエルサレムにとどまっていたのです。両親はイエスさまを捜しながら、エルサレムに引き返しました(43‐45節)。
神殿での少年イエス
三日の後、マリアとヨセフは、イエスさまがエルサレム神殿の境内にいるのを見つけました。神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問しておられたのです。人々は皆、イエスさまの賢い受け答えに驚いていました(46、47節)。
エルサレム神殿はエルサレム市街の中心に建てられた、ユダヤ教の礼拝の中心地であり、最も聖なる場所であるとされていた場所です。各地から巡礼に来た人々が目指すのも、このエルサレム神殿でした。
両親はイエスさまのその様子を見て驚きました。そうして、母マリアがイエスさまに言いました。《なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです》。すると、イエスさまは言われました。《どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか》。しかし、マリアとヨセフには、イエスさまの言葉の意味が分かりませんでした(48‐50節)。
イエスさまの「父」とは、両親にとっては、当然ながら父ヨセフのことです。なのに、イエスさまは神を礼拝する神殿を「わたしの父の家」と呼んだのです。この不思議な言葉には、自分のまことの父は神御自身であるという意味が込められています。自分のまことの父は神さまなのだから、私が父の家(=神殿)にいるのは当たり前でしょう、とイエスさまはおっしゃったのです。私たちはここに、「イエス・キリストは神の子」であるとのルカ福音書の大切なメッセージを読み取ることができます。
それから、イエスさまは両親と一緒に故郷であるナザレに戻り、両親に仕えてお暮しになりました。母マリアはイエスさまの言葉の意味がそのときは分かりませんでしたが、これらの出来事をすべて、大切に心に納めていました。イエスさまはその後、知恵がさらに増し、背丈も伸び、神と人々に愛されて育ってゆきました(51、52節)。
すべてを心に納めていた母マリア
ご一緒に本日の聖書箇所を振り返りました。様々なメッセージを汲み取ることができる箇所だと思います。本日は、《これらのことをすべて心に納めていた》(51節)母マリアのお姿に私たちの心を向けてみたいと思います。少年イエスの突飛とも言える行動、そして理解のできない言葉を、否定するのではなく、大切に心に納めていたマリアのお姿です。
《わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか》というイエスさまの言葉の意味を、そのときは両親が理解することができなかったと述べました。私たちは自分が理解できないことをすぐに否定し、すぐに忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。けれどもマリアは、いまは理解できないそのイエスさまの言動をすべて、大切に心に納め、記憶に留めておられたのです。
このマリアのお姿は、もう1箇所、2章の19節にも記されています。クリスマスの夜、羊飼いたちの前に現れた天使が救い主の誕生を告げ、彼らが飼い葉桶に眠るイエスさまを探し当てる場面です(2章8-20節)。周囲の人々は羊飼いたちが語る天使のお告げを不思議に思いましたが、《マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた》(19節)と福音書は記します。ここにも、《これらの出来事をすべて心に納めて》という言葉がありますね。原文のギリシア語では51節と違う語が使われていますが、意図するところは同じでありましょう。いまは理解することができない事柄を、大切に心に留めておくという姿勢です。また、この19節には、続けて《思い巡らしていた》ということも書かれています。思い巡らす、あるいは、熟考するという意味がある言葉です。
このマリアの姿勢は、私たちが聖書を読む上でも、大切なことを教えてくださっているのではないでしょうか。私たちは聖書の言葉を読んでも、すぐにはその意味が分からないことが多いものです。時間が経ってから、その意味が分かってくることの方が多いのではないでしょうか。そしてそのためには、いま意味は分からなくても、その言葉を大切に心に納め、折に触れ思い巡らすことが必要です。
またこのマリアの姿勢は、私たちの日々の生活においても、大切なものであると思います。パソコンやスマホの普及により、私たちはすぐに「答え」が与えられることに慣れてしまっている部分があるのではないでしょうか。ここ数年はさらにAIが飛躍的に進化し、何かをAIに相談すると、瞬時に情報が出てくるようになっています。こちらの求めに対してすぐに答えや結果が与えられることに、私たちの心身が慣れてしまっています。そのような中、たとえいまは理解できなくても、大切に心に納め、熟考するという態度は、私たちの日々の生活においても、ますます重要なものになってきているように思います。
シメオンの預言
ルカによる福音書においては、羊飼いと天使のエピソードの後に、神殿での奉献の場面が続きます(2章22-40節)。誕生から40日後、律法の定めに従って神殿に連れていかれた赤ん坊のイエスさまがシメオンと女預言者のアンナと出会う場面です。救い主の到来を待ち望んでいたシメオンは、幼子を腕に抱き、《主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます》(29節)と神をたたえました。シメオンは驚くヨセフとマリアを祝福し、母マリアに対して、次の神の言葉を取り次ぎました。
《御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。/――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです》(34、35節)。
ここでシメオンは、イエス・キリストのご生涯の最期、ご受難と十字架を預言したのです。またその受難に立ち会うマリア自身の心も剣で刺し貫かれることが告げられています。
《お言葉どおり、この身に成りますように》 ~深い愛と決意の中で
この場面の後に続くのが、本日の聖書箇所、神殿での少年イエスのエピソードです。本日の聖書箇所の末尾に記された、マリアが《これらのことをすべて心に納めていた》の《これらのこと》の中には、神殿での奉献の際のシメオンの預言も含まれていると受け止めることができます。シメオンから預言が与えられたとき、やはりマリアはその言葉の意味がはっきりとは分からなかったでしょう。けれども、大切に心に納められたことでしょう。イエスさまが誕生される前、天使ガブリエルからイエスさまの受胎を告知された時、《お言葉どおり、この身に成りますように》(1章38節)と答えた時と同じ愛と決意の中で――。
母マリアが心に納めていたすべてのことの真の意味を理解したのは、我が子が十字架におかかりになった時でした。そして、三日目によみがえられた時でした。しかし、たとえ意味は分からなくても、マリアははじめから胸の内に収めたすべてのことが、イエスさまの言動の一つ一つが、重大な意味を持っていることは分かっておられたのではないでしょうか。イエスさまの一つひとつの言動を、そのすべてを、愛と決意の中で、あるがままに受け止めておられたのではないでしょうか。その意味で、深い愛と決意の中で発された《お言葉どおり、この身に成りますように》というはじめの言葉が、すべてを“そのもの”として受け止める土台となり続けていたのだと言うことができます。
命の約束と結ばれて ~いまは分からなくても
本日の神殿での少年イエスのエピソードでは、冒頭でイエスさまがいなくなります。そして《三日の後》に、神殿の中で見つかります。少し飛躍した解釈になるかもしれませんが、ここに私たちはイエスさまの十字架の死と復活が暗示されていると捉えることもできるかもしれません。
この先、成人され、公の活動を開始されたイエスさまは、ご受難と十字架という苦難を受けられることになります。その受難と死と埋葬に立ち会う母マリア自身の心も、剣で刺し貫かれます。しかし、預言はそこで終わりなのではありません。ルカ福音書は、十字架の死の後、復活の場面を描きます。十字架の死より三日目に、いなくなってしまった我が子は戻ってくる(エレミヤ書31章16、17節)のです。
ルカによる福音書が描くのは、この命の約束の物語です。イエスさまと交わされた命の約束は、母マリアが《お言葉どおり、この身に成りますように》と決意された時から始まり、イエスさまの誕生、公の活動、ご受難と十字架、そしてイエスさまが復活しその約束が成就して天に昇られる時まで、ルカ福音書の根底に響き続けています。
12歳のイエスさまを神殿の境内で見つけた時、母マリアはいまだ多くのことは理解してはおられませんでした。しかし、命の約束の中で、愛と決意の中で、起こった出来事のすべてを胸の内に抱き留められました。
私たちもいまだ多くのことを理解することができていません。理解のできない出来事の中で、ただ涙することしかできないのが私たちの率直な姿です。しかし私たち一人ひとりもまた、イエスさまの命の約束と結ばれていることをご一緒に心に留めたいと思います。たとえいまはまだ分からなくても、「答え」はまだ見つからなくても、イエスさまの命の約束を信頼し、目の前の一つひとつの事柄に向かい合ってゆきたいと願います。
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