2026年5月31日「神の子とする霊」

2026531日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ローマの信徒への手紙81217

神の子とする霊

 

 

聖霊降臨節第2主日・三位一体主日

 

  先週はご一緒にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝をおささげしました。ペンテコステはイエス・キリストが復活して天に昇られた後、弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する日です。聖霊とは、神の霊のことです。このペンテコステ以降、教会の暦で聖霊降臨節に入ります。本日は聖霊降臨節第2主日礼拝をおささげしています。

 

キリスト教は伝統的にこの聖霊を、天の神さま、イエス・キリストと共に信仰の対象としてきました。神は唯一であると同時に、「父・子・聖霊」の三つの顔がある。少し難しい言葉では「三位一体(さんみいったい)」と呼ばれます。本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は、三位一体を記念する三位一体主日にあたります。

三位一体の教理は論理的に理解しようとすると難しいものですが、この教理のおかげで、これまでの歴史においてキリスト教がその固有性(かけがえのなさ)を保つことができたのだと受け止めることができるでしょう。

 

 先ほどご一緒に讃美歌351番『聖なる聖なる』を歌いました(詞:Reginald Herber、曲:John B. Dykes。日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21 交読詩編付き』所収、日本基督教団出版局、1997年)。三位一体を主題とする代表的な賛美歌の一つです。

1番の歌詞には《三つにいまして ひとりなる》という言葉がありました。神さまは「父・子・聖霊」の三つに区別されると同時に、ただ一人のお方であると謳われています。三位一体なる神を賛美する曲として、世界中で歌い継がれている曲です。

 

 また、私たちが礼拝の最初あるいは最後に歌う「頌栄」でも、三位一体なる神さまが謳われています。頌栄は「神の栄光をたたえる歌」という意味です。本日ご一緒に礼拝のはじめに歌った頌栄24番「たたえよ、主の民」の歌詞を見てみましょう。《たたえよ、主の民、みつかいと共に、恵みにあふれる 父・子・聖霊を》(詞:Thomas ken,曲:ジュネーヴ詩編歌、同所収)。《父・子・聖霊》の三位一体の神をたたえる歌詞になっていますね。キリスト教は礼拝の最初あるいは最後にこの頌栄をもって三位一体の神を賛美する伝統があります。この頌栄からも、キリスト教がいかに三位一体の神さまへの信仰を大切にしてきたかを感じ取ることができます。

 

 

 

父なる神と子なるキリスト ~相互の愛と信頼に基づく関係

 

 父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体についてお話しました。《父なる神》という呼び方も、キリスト教が伝統的に用いてきたものです。もちろん、神さまには本来性別はありませんし、父親や男性に限定されるものではありません。ジェンダーの観点から近年は《父なる神》という呼び方をしない人も増えてきていますが、キリスト教が誕生した当初、この呼称は必ずしも家父長制に基づく意味合いで用いられていたわけではありません。

 

本日の聖書箇所ローマの信徒への手紙81217節の中に《アッバ》という言葉が出てきました。《この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです15節)。「アッバ」はアラム語で、幼い子どもが父親を親しく呼ぶ言葉です。「パパ」「父ちゃん」というニュアンスでしょうか。この呼び方はイエスさまご自身が生前、実際にそのように神さまに呼びかけていたことに由来しています。ユダヤ教でも神を「我らの天の父」と呼ぶことはなされていましたが、神を一対一の関係で親しく「アッバ」と呼ぶことはありませんでした(参照:大貫隆先生『イエスという経験』、岩波現代文庫、2014年、8690頁)。ですので、イエスさまのまったくのオリジナルの呼び方ということになります。弟子たちもよほど印象深く覚えていたのでしょう、その後、この《アッバ》という呼称が原始キリスト教教会において浸透していくこととなります。

 

イエスさまが神を《アッバ》と呼ぶことができたのは、神さまご自身がイエスさまを「愛する子」と呼んでくださるからでしょう。先ほど礼拝の中でマルコによる福音書1911節を読んでいただきました。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天が裂けて、聖霊が鳩のようにイエスさまのもとに降り、《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者11節)という声が天から聞こえました。イエスさまは、ご自分を無条件に愛し、語りかけてくださる《アッバ》なる神の存在をいつも見出しておられたのです。

神さまはイエスさまのことを「愛する子」と呼び、イエスさまは神さまのことを親しく「アッバ」と呼ぶ――。父なる神と子なるキリストの関係性は、そのような対等な一対一の、相互の愛と信頼に基づくものであることが分かります。《父なる神》という呼称は本来、家父長制に基づくものではなく、イエスさまと神さまの相互の愛と信頼の関係に基づくものであることを心に留めたいと思います。

 

 

 

《神の子とする霊》

 

本日の聖書箇所ローマの信徒への手紙81217節は、聖霊によって、私たちもまた、神さまを《アッバ》と呼ぶことができるのだと記されています。《あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。/この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます1516節)

 

「私たちを神の子どもとする」こと、ここに、聖霊の根本的なお働きの一つがあることを本日の聖書箇所は伝えています。聖霊は、私たち一人ひとりもまた、神さまの愛する子どもであることを知らせ、証してくださる。そして、神の子どもとして、私たちもまた神さまを親しく《アッバ》と呼び、愛と信頼に基づいた関係性を築いていけるよう働いてくださるのです。三位一体主日である今日、相互の愛と信頼に基づく関係性を私たちの土台に据えることができるようご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》 ~支配‐被支配に基づく関係

 

 いまお読みしましたローマの信徒への手紙81516節の中に《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》という言葉が出てきました。聖霊とは別の、聖霊と正反対の働きをする存在として並べられています。

 

 聖書には聖霊の他に、「霊」として「悪霊」や「人間の霊」が登場します。「霊」は原語のギリシャ語では「プネウマ」という言葉です。プネウマには神から出た「聖なるプネウマ(聖霊)」もあれば、悪霊や、私たちの自己中心的な想いから出た「人のプネウマ(人の霊)」もあるのですね。私たちは日々の生活の中で、これらの見えない諸霊から様々な影響を受けているのではないでしょうか。

ヨハネの手紙一には《愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい》という言葉があります41節)。私たちは日々の生活の中で、それが聖霊のお働きであるのか、それとも自分や誰かの想いであるのか、常に吟味し確かめる必要があるでしょう。

 

《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》はもちろん、神の霊ではありません。人から出る霊であり、人を支配し、恐れに陥れようとする悪しき力であると受け止めることができます。

 先ほど、父なる神と子なるキリストの関係性は相互の愛と信頼に基づくものであることを述べました。聖霊は、この関係に私たちを招くよう働いてくださることを述べました。対して、悪しき霊は、私たちを恐れによって支配し、私たちの関係を支配‐被支配に基づくものに歪ませるよう働きます。

 

 このように悪しき霊の働きを捉えてみると、私たちは日々の生活の中で、様々な場面でこの悪しき力の影響を受けていることが分かります。支配‐被支配の関係性というのは、私たちの近くに遠くに、様々な場面で容易に発生し得るものです。職場で、学校や大学で、あるいは家庭で……。いじめやハラスメントもこの悪しき力によって生じているものでしょう。これらの問題には、立場の強い人の想いや欲求が、より立場の弱い人に一方的に押し付けられているという共通の構造があります。押し付けられている側は、それに対して「NO」「嫌だ」と異議を唱えることができません。支配とコントロールが生じているからです。そこに対等な関係はなく、力による支配に基づいた主従関係が生じてしまっています。このように他者を支配しコントロールすることは、他者の尊厳を傷つけ、人権を侵害する行為であり、決して容認することはできないものです。

 

このように人を支配しようとする想いや欲求は、私たち自身の内にも存在していることにも気を付けたいと思います。私たちはこの力を行使される立場になり得ると同時に、この力を行使する立場にもなり得ます。一方が自分の「霊(想い、意向、欲求)」を無理やり相手に強要しようとするとき、私たちの関係性は傷付き、壊れてゆきます。

 

 

 

愛と信頼に基づく関係を築いてゆくことができますように

 

 改めてローマの信徒への手紙の言葉を読んでみましょう。《あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです》。

 

 私たちは人を恐れによって支配する悪しき霊を受けたのではない、と手紙の著者パウロは語ります。そうではなく、私たちを神の子どもとする霊を受けたのだ、と。

 聖霊は、私たちが悪しき力の支配から解放され、まことの愛と信頼に基づく関係性を結ぶことができるよう働いてくださる方です。神に愛されている者として、私たちもまた、この愛と信頼に満ちた関係を、神さまと隣人と築いてゆくことができるようにと招かれています。

 

私たちは誰かの奴隷なのではありません。誰かのロボットなのでもありません。私たちは一人ひとり、かけがえのない、神さまの大切な子どもであるのです。《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》――この神さまの言葉はいま、イエス・キリストを通して、私たち一人ひとりに語られていることを心に刻みたいと思います。

 

 

私たちが力による支配から解放され、対等な、愛と信頼に基づく関係を築いてゆくことができますように、聖霊なる神さまの導きを祈り求めましょう。