2026年1月18日「時は満ち、神の国は近づいた」

2026118日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書11420

時は満ち、神の国は近づいた 

 

 

 

 厳しい寒さが続いていますが、いかがお過ごしだったでしょうか。16日の金曜日まで、冬期休暇をいただき、ありがとうございました。先週は日本海側を中心に大雪となり、生活や交通にも様々な支障が出ました。私たちの住む花巻もいったん路面の雪が溶けたものの、また積もりましたね。皆さんも外出の際はくれぐれも安全にお気を付けください。

 

 昨日と本日にかけて、大学入学共通テストが行われています。受験生の皆さんの心身の健康が支えられ、これまで準備してきた成果を発揮し、ベストを尽くすことができますようお祈りしています。

 

 昨日117日、阪神・淡路大震災から31年を迎えました。国内外で追悼の祈りがささげられたことと思います。この震災では関連死を含め、6434人の方々が亡くなられました。被災をした方々の上に、神さまの慰めとお支えがありますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

 また今年、私たちは東日本大震災から15年を迎えます。東日本大震災と原発事故を覚え、引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

招きの言葉 ~《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》

 

先ほどご一緒に本日の聖書箇所の一つ、マルコによる福音書11420節をお読みしました。冒頭の1415節に次の言葉がありました。《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》。

 

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》――これは、マルコによる福音書において、イエス・キリストが最初に発された言葉です。イエスさまは30歳になられる頃、公の宣教活動を始められたと言われています。イエスさまがその公の活動を開始されるにあたっての第一声、それがこの言葉であるのですね。アドベントの時期にはこの御言葉が礼拝の始まりの招詞(招きの言葉)として読まれることもあります。

 

イエス・キリストの宣教は、この言葉から始まりました。私たちキリスト教会の歴史も、この言葉が出発点の一つとなっていると受け止めることができます。本日は改めて、この生前のイエスさまの招きの言葉に私たちの心を向けてみたいと思います。

 

 

 

ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤで

 

まず、このイエスさまの言葉がどこで語られたものであるかを確認しておきましょう。それは、イエスさまの故郷ガリラヤです。ガリラヤはパレスチナの北部に位置する地域で、イエスさまの故郷であり、宣教の活動の拠点とされた場所です。よって、福音書の主要な舞台となっている場所でもあります。ガリラヤと言えば、ガリラヤ湖がよく知られていますね。ハープ(竪琴)のような形をした、美しい湖です。イエスさまは荒れ野での試練を終え11213節を参照)、故郷ガリラヤへ戻ってその公の活動を開始されました。マルコ福音書はそのことを記述するに際し、《ヨハネが捕らえられた後》という言葉が付しています。

 

ヨハネとは、ヨルダン川でイエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。その時ヨハネは、時の権力者であるヘロデ王の不義を指摘したために、捕えられ牢につながれていました61718節)。不正を不正としてはっきりと指摘したために、ヨハネはヘロデから怒りを買い、捕らえられていたのです。その後、ヨハネは策略によって命を奪われることとなります。そのような不穏な、緊迫した状況の中で、イエスさまは公の活動を開始されたことが分かります。

 

 

 

神の国とは

 

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。イエスさまのこの第一声には、「神の国」という言葉が出てきます。「神の国」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。二十数年前2000年)に、時の首相が「日本は、天皇を中心としている神の国である」という発言をしたことがありました。日本で古来より言われている神の国という言葉と、ここでの神の国とは同じ言葉であっても内容は異なるものです。

 

ここでイエスさまがおっしゃろうとしている神の国は、ある特定の国家のことを指しているのではありません。神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、神の願い、またそして、神の愛が満ち満ちている場が、神の国です。時が満ち、この神の国が私たちの足元に到来しようとしているとイエスさまは宣言されました。

 

ここで心に留めたいのは、私たちが神の国に「行く」のではなく、私たちのもとに神の国が「来る」ところです。イエスさまと共に神の国が来る、あるいは、イエスさまのおられるところにすでに神の国が到来している、そのようにキリスト教は受け止めてきました。

 

私自身は最近、この神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つの欠けもないこと」と「多様性がありつつ、一つであること」の意味を込めています。

 

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記は、神がこの世界のはじめに天地万物を創造されたことを語っています。そのように神によって造られた一つひとつの存在が、そのものとして、極めて「良い」(創世記131節)ものとして、一つも失われることなく包摂されている世界。神さまの愛の中で、一人ひとりの存在が、かけがえのない=替わりがきかないものとして尊重され、互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。その世界の在り方を、私は「十全なる世界の在り方」と形容し、生前のイエスさまが宣べ伝えた神の国についての私なりの説明としています。イエスさまは、この十全なる世界(=神の国)がすでに天にあるように、地上にも到来しようとしていることを伝えてくださいました。

 

 

《今この時は満ちている》

 

 では、神の国が到来するその「時(ギリシア語ではカイロス)」とは、いつか。それは、「いま」です。遠い将来ではなく、「いま」、神の国が到来しているとイエスさまは宣言されました。

新約学者の大貫隆先生は、《時は満ち》を《今この時は満ちている》と訳しておられます(『イエスという経験』、岩波現代文庫、2014年、100頁)。ここでの「いま」とは、私たちが日常生活で使っている「いま」という言葉とは違う意味合いがあるものです。イエスさまがおっしゃった《今この時》とは、過去‐現在‐未来のすべての時を内包する、特別な「いま」です。この特別な、かけがえのない「いま」のただ中においては、神によって造られた一つひとつの、すべての存在が無条件の肯定のもとに置かれています。「いま・ここ」に現存する、この光り輝く十全なる世界を、生前のイエスさまは「神の国」と呼ばれたのだと本日はご一緒に受け止めたいと思います。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。

 

 

 

心の向きを変えて

 

イエスさまはいま・ここに神の国の光が到来していることを宣言され、《悔い改めて福音を信じなさい》と人々に語られました。

「悔い改め」は、教会の中でも耳にすることがある言葉ですね。日本語では「悔いる」という語が入っていますので、「自分のこれまでの悪行を悔いて、心を入れ替えること」を指す言葉として受け止めている方もいらっしゃるでしょう。実際、キリスト教でもそのような意味でこの言葉が用いられることがあります。ただ、マルコ福音書においては必ずしも「悪行を悔い改める」という意味で使用されているわけではありません。「悔い改めて」と訳されているのはギリシア語ではメタノエオーという語です。この語は「心の向きを変える」という意味を持っています。言い換えますと、まなざしの「方向転換」です。

 

では、何に対して私たちの心の向きを変えるのでしょうか。それは、福音です。福音は「良い知らせ」という意味です。ここでの福音とは、イエスさまが宣べ伝える神の国についての良い知らせであると、本日はご一緒に受け止めたいと思います。イエスさまは、私たちが心の向きを変え、神の国の福音を信じるよう招いてくださっているのだ、と。《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。

 

 

 

神の国の福音を信頼する

 

「信じる」という言葉は、原語では「信頼する」「委ねる」の意味もあります。イエスさまのこの招きを、「神の国の福音を信頼し、あなた自身をそれに委ねなさい」と表現し直すこともできるでしょう。

 

 先ほど、ここでの「悔い改め」とは、「心の向きを変える」ことを意味していると述べました。心の向きを変えることは、私たちにとって勇気を必要とするものなのではないでしょうか。それは自分のものの見方を新しくすることを意味し、そして自分の生き方を見直すことをも意味するからです。イエスさまはそのような私たちに対して、「神の国の福音を信頼しなさい」と語りかけてくださっています。何か理解の難しいことをおっしゃっているのではありません。神の国に心を向け、その良き知らせを信頼することを求めておられるのです。

 

神によって創造された一つひとつの存在が、そのものとして、極めて「良い」ものとして、一つも欠けることなく包摂されている世界。神の愛の中で、一人ひとりの存在が、かけがえのないとして尊重され、違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。いま・ここに現存するこの神の国の光にあなたの全身を委ね、そこから力を得なさい、とイエスさまは私たちを励ましてくださっています。

 

私たちの力の源は、神さまのもとにあります。神の国が力の源泉である限り、私たちの力は枯渇し切ってしまうことはないでしょう。私たちは神の国の福音を信頼し、そこから力を得、自分の使命を果たしてゆくことが求められているのでしょう。

 

 

 

弟子への招き

 

 本日はイエス・キリストの公の活動の第一声の招きの言葉に私たちの心を向けました。生前のイエスさまが宣べ伝えられた神の国とはどのようなものであったかについても、思いを馳せました。

 

 マルコによる福音書はこのイエスさまの神の国の招きに続けて、弟子への招きの場面を記します。イエスさまによる神の国の到来の宣言の直後に記されているのが、ペトロたちが弟子へと招かれる場面です。神の国の福音への招きと弟子への招きは、密接に結びついているのだということが分かります。神の国は他ならぬ、私たち人間の働きを通しても実現されてゆくものであると受け止めることができるでしょう。

 

1618節《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。/イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。/二人はすぐに網を捨てて従った》。

ガリラヤ湖には多くの魚が棲んでおり、漁業もさかんです。ペトロたちはもともとは湖で漁業を営む漁師でした。湖のほとりを歩いておられたイエスさまは、網を打って漁をしているペトロと兄弟アンデレをご覧になり、弟子へと招きます。《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう17節)。神の国への招きに続く、もう一つの招きの言葉です。 

 

 

 

もう一つの招きの言葉 ~《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》

 

わたしについて来なさい》を原文に即して訳し直しますと、「わたしの後ろについて来なさい」となります。原文では、「後ろに」という言葉が入っているのですね。イエスさまに従うとは、イエスさまの後ろにつき従うことであることが示されています。

イエスさまの後ろを歩むとは、言い換えますと、イエスさまが宣べ伝えられた神の国の在り方を第一とする(マタイ福音書633節)ということです。自分の利益を第一とするのではなく、神の国の使信を第一とする――言い換えますと、一人ひとりの生命と尊厳を第一とすることが、イエスさまの歩まれるその後ろに従って歩んでゆくことであるでしょう。

 

 続く《人間をとる漁師にしよう》という言葉には、「いまあなたたちが網を投げ、魚を網の中に招き入れようとしたように、これからは、人々を神の国に招き入れる漁師にしよう」というメッセージが込められています。二人はすぐに網を捨てて、イエスさまに従いました。その後、ヤコブと兄弟ヨハネも同じく弟子へと招かれることとなります1920節)

 

 

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》。このはじまりの言葉はいまこの時、私たち一人ひとりに向けて語られています。このイエスさまの招きの言葉にいま、私たちの心を向けたいと思います。