2026年4月19日「イエスは良い羊飼い」

2026419日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書10718

イエスは良い羊飼い

 

 

 

熊本地震から10

 

先週の416日、熊本地震の本震から10年を迎えました。各地で追悼の祈りがささげられたことと思います。この地震では観測史上初めて2度の最大震度7の揺れに襲われ(14日と16日)、278名の方々が犠牲となりました。

いまも深い悲しみ、困難の中にいる方々を覚えて、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

また昨日、長野県の北部を震源とする地震が相次いで発生、大町市では最大震度5強、長野市では震度5弱が観測されました。今後1週間は同程度の揺れに注意する必要があるとのことです。皆さんの安全が守られますよう、お祈りしたいと思います

 

 

 

イエスは良い羊飼い

 

 本日の聖書箇所ヨハネによる福音書10718節の中に、次のイエス・キリストの言葉がありました。《わたしは良い羊飼いである11節)

聖書では、神が羊飼いのイメージで表されることがあります。神さまは羊飼い、私たちはその羊の群れである、と。先ほど礼拝の中で読んでいただいた詩編23編の冒頭《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。…1節)はよく知られているものですね。

 

羊飼いは日本に住む私たちにはあまりなじみがないものですが、聖書の舞台であるパレスチナにおいてはとても身近な存在でした。

羊飼いは、群れをなす羊を守り、養い、導く存在です。必要に応じて羊に休息を与え、食物と水を与えます。また羊が迷ったり、穴に落ち込んだりしないように導きます。羊飼いの導きは、群れをなして移動する羊たちにとって不可欠のものです。

 

本日の聖所箇所では、イエス・キリストが羊飼いであると語られています。《わたしは良い羊飼いである》。さらにイエスさまは続けてこうおっしゃっています。《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》。

歴史上、「私のために生命を捨てろ」と人々に命令した指導者はたくさんいたでしょう。自分たちが属する組織や国家のために命をささげることを強要した指導者はたくさんいた(いる)ことでしょう。しかし、イエスさまはその真逆です。イエスさまは「あなたのために生命を捨てる」とおっしゃってくださいました。そうして事実、十字架の上でご自身の命をささげてくださいました。それほどまでに、イエスさまは私たち一人ひとりの存在を重んじ、大切にしてくださっている方であることを聖書は伝えます。

 

 また、本日の聖書箇所は、イエス・キリストは「良い」羊飼いであると語ります。「良い」羊飼いとはどのような存在でしょうか。一匹一匹の羊を重んじ、大切にする羊飼いが、良い羊飼いなのではないでしょうか。私たち人間で言い換えますと、一人ひとりの生命と尊厳を重んじる指導者が、良い指導者だと言えるでしょう。

対して、もし「悪い」羊飼いがいるとしたら、どのような存在でしょうか。一匹一匹の羊を軽んじ、大切にしない羊飼いが、悪い羊飼いだと言えるのではないでしょうか。一人ひとりの生命と尊厳を軽んじる指導者が、私たちにとって悪い指導者です。

 

テレビをつけると、様々な指導者たちの顔が画面に映し出されます。いったい誰が、私たちにとって「良い」指導者であるのか、私たちは見極めることが求められているでしょう。

 

 

 

ローマ教皇レオ14世「世界は一握りの暴君によって荒廃が進んでいる」

 

 先週416日、ローマ教皇レオ14世がカメルーンで開かれた平和集会で演説し、「世界は一握りの暴君によって荒廃が進んでいる」と述べ、戦争を主導する指導者たちを批判しました。イラン戦争を主導するトランプ大統領を念頭に置いた発言であることは言うまでもありません。

 

 228日にイスラエル軍とアメリカ軍が国際法を無視してイランを先制攻撃して以降、ローマ教皇はトランプ大統領を厳しく批判し、戦争に反対する姿勢を鮮明にしています。先月の329日には、教皇は「戦争を始め、血にまみれた手を持つ指導者たちの祈りを神は拒絶される」と述べました。ここまで踏み込んだ発言は、ローマ教皇の言葉としては異例のものでした。

アメリカの一部の為政者たちは戦争を正当化するために聖書の言葉を用いています。しかし、教皇は「イエスは戦争を拒絶される。誰も戦争の正当化にイエスを利用することはできない」と述べ、それをはっきりと否定されています(ニューズウィーク日本版、「神は戦争起こす指導者の祈りを拒絶」、ローマ教皇が異例の発言、2026/3/30https://www.newsweekjapan.jp/articles/-/317879?display=b。ローマ教皇がおっしゃる通り、イエス・キリストは武力による解決(=戦争)をはっきりと否定されています。《剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる(マタイによる福音書2652節)と語られている通りです。

 

 トランプ大統領の言動と、ローマ教皇の言動のどちらが聖書に真に基づいているものであるのか、そしてどちらが指導者としてふさわしいものであるかは言うまでもありません。一人ひとりの生命と尊厳を重んじる指導者が、私たちにとって「良い」指導者です。一人ひとりの生命と尊厳を軽んじる指導者が、「悪い」指導者です。戦争は、生命と尊厳を傷つける暴力の最たるものです。この度のイスラエル国とアメリカの蛮行は、決して容認することのできないものです。中東での戦争が、一刻も早く恒久的な停戦へ至るよう願います。

 

 

 

囲いの外にいる羊たちをも

 

 改めて、本日のイエス・キリストの言葉に心を向けてみたいと思います。16節にはこのような言葉もありました。《わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる》。

 

羊飼いは羊を守るために「囲い」を作ります。囲いの中にいる羊たちは、もはや迷い出ることはありません。しかしイエスさまはさらに、「この囲いに入っていないほかの羊も導かなければならない」とおっしゃっています。囲いの外にいる一人ひとりもまた、イエスにとって失われてはならない、大切な存在だからです。

このイエスさまの姿勢は、昨今の、自分勝手な「囲い」を作り、その「囲い」に入っていない人々を敵視し排除する、排外主義とは対照的なものです。近年、排外主義的な考えをもつ指導者たちがいかに増えてきていることでしょうか。

 

 

 

羊たちは「良い」羊飼いの声を聞き分ける

 

また、イエスさまは、人々はご自分の声を聞き分けることができると語られています。羊たちはなぜ、「良い」羊飼いの声を聞き分けることができるのでしょうか。

 

私たちの社会は、様々な声が飛び交っています。人を軽んじる言葉、心無い声も無数に飛び交っています。あるいは、力強い言葉や美しい言葉を巧みに織り交ぜて人々の関心を引こうとする声も飛び交っています。たくさんの声の中から、私たちはなぜ《良い羊飼い》の声を聞き分けることができるのか。それは他でもない、その声が、まことの愛から発されている声であるからではないでしょうか。

 

聖書が語る愛とは、私なりに言い換えますとそれは「相手の存在をかけがえのないものとして重んじ、大切にしようとすること」です。

聖書は、神さまが私たちを愛するゆえ、私たちの存在を重んじるゆえ、独り子なるイエス・キリストを私たちのもとにお送りくださったことを語っています。そして、イエス・キリストは、私たちを愛するゆえ――私たちの存在を極みまで重んじるゆえ、私たちのためにご自身の命を捨ててくださったことを聖書は証しています。

 

だからこそ、私たちは「良い」羊飼いの声を聞き分けることができます。それが、自分をまことに重んじ、尊重してくれている方の声であるからです。たとえ遠くから発されているようでも、多くの声に紛れているようであっても、はっきりと分かります。自分をまことに大切にしてくれている人の声であるからです。そしてその声が私たちに命を与え、力を与えます。

 

こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる》のだとイエスさまは述べます。「良い」羊飼いは私たちを対立と分断に導くのではなく、愛によって一つに結び合われるよう導く存在であることが語られています。

 

 

 

ただ一度きりの犠牲

 

 本日は、《わたしは良い羊飼いである》というイエス・キリストの言葉にご一緒に心を向けました。《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。/羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――/彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。/わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。/それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる1115節)

 

 イエスさまは私たちを極みまで重んじるゆえ、その命までもささげてくださいました。ただし、ここで心に留めておきたいことは、イエスさまは、「だからあなたも誰かのために生命を捨てろ」とおっしゃっているのではないということです。「あなたという存在が決して失われることがないために、わたしが生命をささげる」とおっしゃってくださっているのです。 

 

イエス・キリストの十字架上での犠牲は、「ただ一度きり」(ヘブライ人への手紙928節)の犠牲です。私たちの存在が失われることがないために、神の御子であるイエスさまが十字架上で「ただ一度きり」の犠牲をささげてくださいました。

ですので、私たちはもはや、生命と尊厳を犠牲にする必要はありません。私たちがなすべきことは、イエスさまのこの大いなる愛と恵みを、ただ受け取ることだけです。そうして、その愛の声に導かれて、「互いを重んじる道」を歩んでゆくことです。

 

十字架の死よりよみがえられたイエスさまはいまも、私たちに語りかけておられます。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネによる福音書1334節)――。

 

 

 

愛の声に導かれて、「互いを重んじる道」を

 

良き羊飼いなるイエスさまの愛の声に導かれて、私たちは「互いを重んじる道」を歩んでゆきます。その道を歩む中で、私たちは共に神の牧場へと導かれ、集められてゆくでしょう。その神の牧場は、一部の人だけのものではなく、すべての人のものです。すべての、一人一人の生命と尊厳が大切にされる場が神の牧場(=神の国)であることをご一緒に心に留めたいと思います。

 

 

 最後に、旧約聖書(ヘブライ語聖書)ミカ書の言葉をお読みいたします。《ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする212節)