2026年5月10日「真理の霊が来ると」
2026年5月10日 花巻教会 主日礼拝説教
「真理の霊が来ると」
弟子たちの困惑と悲しみ ~「何を話しておられるのか分からない……」
本日の聖書箇所ヨハネによる福音書16章12-24節は、イエス・キリストが十字架におかかりになる前の晩、弟子たちに対して語られた最後の言葉の一部です。いわばイエス・キリストの告別の言葉だということができます。
弟子たちはイエスさまが自分たちに何か重大なことを語ってくださっていることを感じつつも、その意味を理解することができていません。《何を話しておられるのか分からない》と戸惑っています(18節)。理解はできないながらも、イエスさまが《しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる》《父のもとに行く》と別れを示唆するようなことをおっしゃっているので、悲しんでもいます。弟子たちはその時、困惑と悲しみのただ中にありました。弟子たちがイエスさまの言葉の意味を真に理解することができるようになるまでには、まだ《しばらく》の時間が必要でした。
弟子たちは生前のイエスさまの言動の意味を必ずしもその場で理解することができていたわけではなく、時間をかけて、少しずつ、その意味を理解していったのです。「ああ、あの時、先生がおっしゃっていたのは、こういう意味だったのだ」、「ああ、あの時の先生の振る舞いにはこういうメッセージが込められていたのだ」……と。
私たちも、聖書を読むとき、それに通ずる経験をすることがあるのではないでしょうか。私たちは聖書の言葉を読むとき、「何が書いてあるのか分からない」と戸惑うことがよくあります。それからしばらして、ある瞬間、その言葉の意味がよく分かるようになる、という経験をすることがあります。以前は分からなかった言葉が、よく理解できるようになる。深く腑に落ちるようになるという経験です。その時、私たちは自分自身が変えられ、自身の世界の見え方自体が変えられてゆくという経験をします。
その経験が訪れるまで、何年も、時には何十年も時間がかかることもあるでしょう。またその後も、その言葉の意味をさらに新しく発見し続けることもあるでしょう。本日はこのことにつながる、私自身の経験をお話してみたいと思います。
高校生の頃のこと
私が聖書を手に取って読んでみるようになったのは、高校生の頃でした。ただし聖書を読んでみても、分からないことだらけ。理解のできないこと、疑問に思うことがたくさんありました。私は自分の考えていることをノートに記す習慣がありましたので、聖書やキリスト教についての様々な思い、疑問、日々感じたことなどをノートに書き綴っていました。
文章にするだけではなく、時には詩にしたり、それにさらにメロディをつけて曲にもしていました。曲をつけて自分で歌ってみることを通してはじめて、混沌としていた自分の内面が整い、落ち着きを取り戻したような感覚になりました。親しい友人たちを除き、誰に聴いてもらうというわけでもなかったのですが、高校3年間にたくさんの曲を作りました。
『この悲しみの道の上に』
自分が作った曲の中で、今でもよく思い出す一曲があります。『この悲しみの道の上に』というタイトルを付けた曲です。2001年9月11日に起こった、アメリカ同時多発テロをきっかけにして作った曲でした。
事件が起こった2001年の当時、私は高校3年生でした。事件当日のことは、強く記憶に残っています。9月11日、国際テロ組織アルカイダが乗っ取った旅客機2機が、ニューヨークの世界貿易センタービルに衝突(また、ワシントンの国防総省にも1機が衝突、1機は農村地帯に墜落)。世界貿易センタービルに飛行機がぶつかる映像、ビルが崩れ落ちる映像をテレビ中継で見ながら、高校生であった私は大変なショックを受けました。この一連のテロによって、全体で2977名もの方々が亡くなったと言われます。
その日からちょうど2ヵ月後の、11月11日に曲が出来ました。普段はまず詩を書いて、それからメロディを付けていました、珍しく詩とメロディが同時に出てきました。これまで我慢してきた何かがたまりかねて一気に外に噴き出したように、すぐに曲がかたちになりました。「悲しみの道」とは、イエス・キリストが十字架を背負って処刑場のゴルゴタの丘まで歩いた悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)のことを指しています。
その時、私が感じていたのは、悲しみが自分の心の中をまっすぐに貫いている、という感覚でした。十字架を背負って歩くイエス・キリスト。そのイエスをあざ笑う人々。投げつけられる小石、心ない誹謗中傷の言葉。私はまるで自分がその現場に立ち会っているような気持ちになりました。以下、ノートに記した詩を引用いたします。
ああ 僕は死海のほとりに迷いこんでいる
上着も着ずに
ああ とりあえず 歩き出そう キリストが死んだ
ゴルゴダの丘へ
ああ 僕には見える 十字架を背負って
歩いてく みじめな、あの人が
僕は泣きながら追いかけるけど
見物人にはばまれて 前へ進めない
あざわらう人々の声が 僕の頭を痛くする
「投げてみろよ」と僕によく似た少年が石を手渡す
この悲しみの道の上で
僕らの ゆくてに 変わることのない 愛を
僕らの こころに あの朝日のような 強さを
やすらぎの草原に たどりついたと思ったら
地雷が埋まっていた
あの人が死んでから、どれくらい月日がたったろう
一体 人間は何を学んできたのか
あの人は見ただろうか あの きのこ雲を
あの収容所を あのビルを
(生きるって何なの どうして こんなに悲しいの
あの人の言葉は 一体どこにいったの)
僕らの ゆくてに 変わることのない愛を
僕らの こころに あの朝日のような希望を
この悲しみの道の上に
この悲しみの道の上に
この悲しみの道の上に
この悲しみの道の上に
このような内容の詩です。詩の後半に出てくる「ビル」とは、先ほど述べました、世界貿易センタービルのことです。この曲を作りながら私が感じていたのは、人が生きること自体の悲しみでもあったように思います。同時多発テロをきっかけに、私は自分の心の底に、そのような生きることの悲しみが、ずっとたまり続けていたことに気づきました。そして、その悲しみは自分の心の中だけではなく、私たち人間の歴史を貫いているようにも感じました。
クリスチャンとは、イエス・キリストが十字架を背負って処刑場まで歩まれたように、この悲しみの道の上をただうつむき、傷つき、耐えながら、懸命に歩いていく……そのようなものなのだろうか、と思いました。悲しみに耐えながら歩いてゆく道、それがクリスチャンの人生なのだろうか、と思いました。
自分にとって大切な経験
そのような私にとって、とても大切な経験があります。大学4年生の、ある日のことでした。寮の自室で机に向かって考えことをしていたとき、私はふと自分の心にイエス・キリストが語りかけてくださったように感じました。その声をあえて言葉にするなら、「良い」というひと言でした。「あなたが、あなたそのもので、在って、良い」――と、イエス・キリスト御自身が語りかけてくださったように感じたのです。それは単なる現状の肯定ということではなく、自分の存在そのものが「良し」とされたという感覚でした。心と体と魂のすべてを含めた私そのものが、いま、大いなる存在から祝福されている。「わたしは、わたしそのもので、在って、良い」のだと思い至りました。
その瞬間、自分の心の奥底にあった罪悪感がほどかれ、スッと消えていくのを感じました。そうして心のどこかでずっと感じ続けていた渇きが癒されていくのを感じました。
旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記には、神が天地創造の際、ご自分が造られた一つひとつの存在をご覧になって《極めて良かった》(創世記1章31節)とおっしゃる場面が記されています。私たち被造物は、神のこの祝福の中で、「良し」とされて生まれ出てきました。その時、私は天地創造のはじまりからこの世界を貫いている、神の「良し」という祝福の声を聴いたような気がしました。
私たち人間の罪よりさらに根本にあるもの、それは、神の「良い」という祝福の声である。私たちの罪よりももっと深いところで、この神さまの「良い」という声は響きわたっている。この祝福の声は、天地創造のはじめから、いまも私たち人間の歴史を貫いているのだ、と私は思い至りました。
私は「福音」という言葉を思い起こしました。「喜び」という言葉を思い起こしました。福音とは、「良い知らせ」「喜ばしい知らせ」という意味です。なんだかずいぶん久しぶりに、喜びという言葉を思い出したような気持ちになりました。
その経験をしてから、聖書の言葉が少しずつ、新しい表情をもって私の前に立ち現れてくるようになっていきました。少しずつ、理解のできない言葉ではなく、理解できる言葉として立ち現れるようになっていきました。そうして聖書が辛く悲しい書ではなく、喜びの書として読むことができるようになっていきました。
真理の霊が来ると
私自身の経験についてお話しました。高校生の頃は読んでも分からなかった聖書の言葉が、ある出来事をきっかけに、少しずつ分かるようになっていった経験。心に深くしみわたってゆく経験。悲しみの書ではなく、喜びの書として読むことができるようになった経験。その時が訪れるまでには、しばらくの時間が必要でした。
本日のヨハネによる福音書16章12、13節には次の言葉があります。《言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。/しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる》。
いまはまだあなたがたには理解ができないが、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせる、とイエスさまはおっしゃっています。真理の霊とは、聖霊(神の霊)のことです。イエスさまが十字架の死よりよみがえり、神のもとへ戻られた後、遣わされる聖霊のお働きを通して、弟子たちは生前のイエスさまの言動を真に理解することができるようになり、イエスさまご自身を十全に経験することができるようになるのです。
教会には、私たちが聖書の言葉の意味を理解できるのは聖霊の働きによるという信仰があります。私たちの力ではなく、私たちを超えた力によって、真理が与えられ、イエス・キリストについて十全に教えられるのだ、と。
私たちが喜びをもって生きてゆくことが神さまの願い
本日の聖書箇所において、弟子たちは悲しみの中にいました。愛するイエスさまとの別離が近いかもしれないことを感じ、困惑と悲しみのただ中にいました。その弟子たちに、イエスは喜びについて語ってくださいました。
《ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない》(22節)。
イエスさまはこの後、十字架におかかりになります。そしてその3日目に復活されます。弟子たちはイエスさまと再び出会い、その時、弟子たちは心から喜ぶことになります。その喜びはもはや何者によっても奪い取られることはありません。イエスさまは弟子たちに、「喜びは遅れてやって来る」ことをあらかじめ語ってくださいました。
先ほど、私が高校生の頃に書いた曲をご紹介しました。「悲しみの道の上」を歩いていたように感じていた私は、その後、心から喜ぶ経験が与えられました。その喜びはいまも私にとって、何者によっても奪いとられることのない喜びです。と同時に、もちろんのことながら、自分の心の中から悲しみがなくなったわけではありません。高校生の頃に感じていた悲しみは、いまも私の心の中に存在しています。日々、心が引き裂かれるような悲惨な出来事や事件が後を絶ちません。私たちは生きている限り、悲しみもまた尽きることはありません。
しかし、私たちは苦しみ、悲しむために生きているのではない、私たちは、喜び、幸せになるために生きているのだ。神さまは、私たちが喜びをもって生きてゆくことをこそ願ってくださっているのだ、ということは確信しています。この悲しみの道の上にも、失われることのない喜びはあるのだ、と。聖書が私たちに伝えているものは他ならぬ、イエス・キリストの福音――喜びの知らせだからです。
たとえいまはまだ分からなくても、すぐに答えは見つからなくても、聖霊なる神さまの導きを信頼し、目の前の一つひとつの事柄に向かい合ってゆきたいと願います。
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