2026年6月28日「洗礼者ヨハネの最期」

2026628日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書6章14-29

洗礼者ヨハネの最期

 

 

 

先週625日(木)午前7時半頃、青森県で最大震度6強を観測する地震が発生しました。皆さんも強い揺れに驚かれたことと思います。今朝午前521分頃にも、青森県と岩手県で震度5弱を観測する地震がありました。花巻教会では物が落ちるなどの被害はありませんでした。先週25日の地震に関して、揺れが激しかった青森県北東地区の教会・伝道所において、けが人や建物の損傷等の大きな被害はいまのところ報告されておりません。盛岡市内では2つの教会で、建物に複数の小さな亀裂が入るなどの被害がありました。今後、被害の状況が明らかになってくるかもしれません。

 

26日(金)の午後10時半頃、山梨県で最大震度6弱を観測する地震がありました。大きな地震が続いています。東北でも今後も先週と同じ程度の地震に注意が必要です。また、台風の接近に伴う大雨の影響で、近畿や中国地方の各地で河川の増水や土砂崩れが相次いでいます。自然災害が相次ぐ中、被災された方々の上に神さまのお支えがありますように、一人ひとりの安全と生活が守られますように、引き続き祈りを合わせたいと思います。

 

 世界各地でも自然災害が生じています。24日(水)には、南米ベネズエラで連続して大地震が発生しました。27日の時点で死者が少なくとも1430人、負傷者が3200人と発表されています。いまだ行方が分からない方が多数いて、被害はさらに拡大する可能性が高いとのことです。被災した方々の上に必要な助けがありますように、懸命に救助活動にあたっている方々の上に神さまのお支えがありますように切に祈ります。

 

 

 

洗礼者ヨハネ ~先駆者として

 

先ほど礼拝の中でマルコによる福音書61429節をお読みしました。洗礼者ヨハネの最期を記した箇所で、昔から絵画や文学の題材にもなってきた場面です。最もよく知られている作品はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』かと思いますが、聖書本文の中にはサロメという名前が出て来るわけではありません。いずれにせよ、読む人々の心に強烈な印象を残してきた場面であると言えます。

 

洗礼者ヨハネとは、イエス・キリストが公の活動を開始するより前に、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授ける活動をしていた人物です。当時多くの人々がヨハネのもとに集い、ヨハネのもとで洗礼を受けていました。イエスさまもまたこのヨハネから洗礼を受けられたと福音書は記しています。ヨハネの活動は人々から熱烈な支持を集めていました。熱烈な支持を集めると同時に、その活動は権力者たちから危険視されるようになってゆき、ついには捕らえられることとなりました。

 

マルコによる福音書は、ヨハネが捕らえられた後、それと入れ替わるように、イエス・キリストが神の国を伝える活動を開始したことを記しています。11415節《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》。

 

キリスト教では伝統的に、ヨハネをイエス・キリストの道を準備する存在として捉えています。これから来られるまことの救い主の道を整え、その道筋をまっすぐにするため13節)、「先駆者」としてヨハネが遣わされたのだと受け止めてきました。

ちなみに、カトリック教会では624日が洗礼者ヨハネの誕生を祝う祭日となっています。夏至の時期に当たるこの日は、イエスさまの誕生を祝うクリスマスのちょうど半年前ですね。

 

 

 

ヘロデ王の葛藤

 

 洗礼者ヨハネからバトンを受け取るようにして活動を開始したイエス・キリストですが、イエスさまが活動を始めて間もなく、ヨハネはヘロデ王によって命を奪われることとなります。本日の聖書箇所はその出来事を回想して記しているものです。

 

イエスさまの名前が知れ渡った時、人々は口々に言いました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」、「彼はエリヤだ」、「昔の預言者のような預言者だ」61415節)

エリヤは旧約聖書に登場する預言者です。人々の間で、預言者エリヤは世界の終わりが来る前に再来すると信じられていました。これはイエスが、というよりは、洗礼者ヨハネのことを当時の人々が再来したエリヤではないかと考えていたことを示しています。ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスはイエスについて聞き知って、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言いました16節)。以下、物語は回想シーンに入ります。改めて、その回想の場面を振り返ってみましょう。

 

 ヘロデはヨハネが自分たちの結婚の不正を指摘したことを理由に、ヨハネを牢につないでいました1718節)。妻へロディアは自分たちの結婚を批判したヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていましたが、できないでいました19節)。なぜなら、夫ヘロデがヨハネは《正しい聖なる人》20節)であることを知って、彼を恐れ、保護していたからです。そしてその教えを聞いて非常に当惑しながらも、同時にその言葉に喜んで耳を傾けていたからです。ヘロデの内には、ヨハネの言葉に従おうとする心と、反抗しようとする心がどちらも存在していたようです。

 

このような心理というのは私たちも経験するものではないでしょうか。正しいことに惹かれながら、同時にその真逆の事柄にも心惹かれている自分を見出すことがあるでしょう。また、ある人のことに好感をもつ自分と、反感をもつ自分とがどちらもいる。私たちの心の中には、善も悪も、「好き」も「嫌い」も、どちらも存在している。このように私たちの心というものは複雑であり、一筋縄には語ることができないものです。ヘロデもまた心の中に相反する想いを抱き、葛藤の中にあった様子が記されています。

 

ヘロデの内には、ヨハネとの出会いを通して目覚めはじめた良心と、ヨハネになお反抗しようとする心とが共存していたのです。ヘロデは葛藤の末、良心を無視して、ヨハネを排除する方向へと突き進んでいってしまうこととなります。

 

 

 

洗礼者ヨハネの最期

 

ヘロデ王の誕生日の祝いの席でのことでした。ヘロディアの娘は踊りをおどって、ヘロデと客を喜ばせました。そこで、ヘロデは娘に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、さらに「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と誓いました2124節)。当時ヘロデは王でありながら立場はあくまでガリラヤ領主であり、そのような権限はありませんでした。実際に権力をもっていたのはローマ皇帝であり、ヘロデは娘と客人との前で虚勢を張ったわけです。ヘロデのこの小さな虚栄心が、大変な結果を招くことになります。

 

 少女は座をはずして、何を願うか母親のもとに相談に行きます。母親のヘロディアは、「洗礼者ヨハネの首を」と答えます24節)。ヨハネが自分たちの結婚の不正を指摘したことを恨みに思っていたからです。少女は大急ぎでヘロデのところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました25節)

 

ヘロデはこれを聞いて、非常に心を痛めます。心が痛んだということは、ヘロデの内に良心が働いていたということを示しているのでしょう。しかし、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった、との理由でその願いを受け入れます26節)。良心よりも、自分の体面の方を優先させてしまったのです。

 

 そうしてヨハネの命は奪われることになりました2728節)。この洗礼者ヨハネの最期についての回想の場面では、ヘロデの小さな虚栄心とヘロディアの個人的な恨みがヨハネの命を奪ったという風に描かれています。ヘロデは自らの権力に酔いしれ、また自分の体面を優先させることによって、良心の声に耳をふさいでしまいました。ヨハネの言葉に従おうとする自分を見出しながらも、結果的には、ヨハネを排除する力に抗うことができなかったのです。人間の小さな虚栄心と復讐心のために、旧約聖書の最期の預言者が葬り去られました。

 

 

 

心の向きを変える

 

 改めて本日の聖書箇所の冒頭に戻ります。イエスの名前が知れ渡った時、ヘロデ王は、「わたしが首をはねたヨハネが、生き返ったのだ」とつぶやきました16節)。このつぶやきから、ヘロデが心の奥底でヨハネの死について罪悪感を抱いていたことが示されていますが、なぜヘロデは「ヨハネが生き返った」と感じたのでしょうか。 

 

それは、伝え聞いたナザレのイエスの姿に、ヨハネの姿が重なって見えたからでしょう。ヨハネはヨルダン川のほとりで人々に「悔い改めよ」と迫りました。それは言い換えれば、「心の向きを変える」ということです。善と悪とのどちらにも惹かれ、葛藤の中にいる人々に向かって、善なる方へはっきりと心の向きを変える決断をすることをヨハネは迫りました。

 

ヘロデはヨハネの「心の向きを変えよ」というメッセージに惹かれながらも、そのヨハネの言葉に相反する行動をとってしまいました。自分の良心の声に従うことはできなかったのです。そうしてヨハネの命を奪うことによって、その口を封じようとしてしまいました。

これで自分を混乱させる存在がいなくなったと安心していた矢先、ヘロデの耳にナザレのイエスについての知らせが届きます。ガリラヤに人々から熱狂的な支持を得ている新しい指導者が現れた。その人は人々に、「悔い改めて、福音を信ぜよ」114節)と伝えて歩いている――。

 

ヘロデはこの知らせを聞いて愕然としたのではないでしょうか。ヨハネの口を封じたと思っていたら、また新しく別の者が、「心の向きを変えよ」と言って回っている。大いなる力をもって悪霊を追い出し、人々の病いを癒して回り、大勢の人々から熱狂的な支持を得ている。ヘロデは何か大いなる力の存在を感じ、畏れを覚えたのではないかと思います。自分がその口を封じさせようとしてもなお語り続ける存在がある。自分がどれだけ否定しようとしてもなお自分に「心の向きを変えよ」と言って迫る存在があることをヘロデは知らされたのではないでしょうか。

 

 

 

福音の中で立ち上がる

 

 洗礼者ヨハネとイエス・キリストの言葉とには、違いもあります。ヨハネは「心の向きを変えよ」と言いました。イエスは「心の向きを変えて、福音を信ぜよ」とおっしゃいました。ここに、決定的な違いがあります。ヨハネとイエスの違いは、そこに福音――喜ばしい知らせ――があるかないか、です。

 

洗礼者ヨハネの言葉は、人間が人間自身に向ける、厳しい審きの言葉です。これは言い換えれば、私たちそれぞれの内にある良心の声であるということができるでしょう。対して、イエスさまの言葉は私たちの良心の声とつながりつつ、それよりもさらに深い次元から来ているものです。その深い次元とは、神の愛です。イエスさまの言葉は、神から人間に向けられた、ゆるしの言葉です。洗礼者ヨハネは私たちの良心を表す存在ですが、イエス・キリストは神の御心を表す存在です。

 

イエスさまのゆるしの言葉とは、言い換えますと、「あなたは生きていて、良い」という神の声です。様々な過ちを犯してしまう、善も悪も内に持つ、日々葛藤の中で生きて行かざるを得ない私たち一人ひとりが、それでもなお、「生きていて良い」のだということ。その神の声をイエスさまは伝えてくださっています。この神の愛の方へと、私たちが心の向きを変えるよう、呼びかけてくださっています。

 

私たちはこの愛に出会い、この福音に包まれる中で、自らがより良く「変わってゆく」ことへと再び立ち上がってゆきます。「変わることができない」自分を幾度も見出しつつ、それでもなお、福音を信頼し、より良い生き方を目指して、歩み出してゆくことができます。善なる方向へと、新たな一歩を踏み出していくことができます。

 

 

イエスさまはいまも、私たちの傍らで励まし続けてくださっています。「時は満ち、神の国は近づいた。心の向きを変え、福音を信じ、福音の中で立ち上がりなさい」。