2026年6月7日「聖霊に満たされて」

202667日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:使徒言行録141331

聖霊に満たされて

 

 

聖霊と諸霊

私たちは現在、教会の暦で聖霊降臨節の中を歩んでいます。聖霊とは神の霊のことです。聖霊は私たちの目には見えませんが、私たちのために様々に働いてくださっていることを聖書は伝えています。聖霊降臨節は、聖霊のお働きを信頼して共に歩む期間です。本日は聖霊降臨節第3主日礼拝をおささげしています。

 

先週の礼拝でもお話しましたが、聖書に出て来る「霊」は、聖霊だけを指すのではありません。聖書には聖霊以外の、目には見えない様々な「霊」が登場します。「霊」と聞くと、死んだ人の霊、幽霊を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、聖書における「霊」は、幽霊とはまた異なります。「悪霊」という言葉は聞いたことがあるでしょうか。たとえば、福音書には「悪霊」や「汚れた霊」と呼ばれる存在が登場します。聖書における悪霊の特徴は、それが、神と敵対する勢力を象徴しているということです。死んだ人の霊である幽霊ではなく、神さまと敵対する何らかの勢力のことを、聖書は「悪霊」と呼んだり「汚れた霊」と呼んだりしているのですね。

 

先ほど礼拝の中で読んでいただいたマルコによる福音書12939節にも悪霊が出てきました。《イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである34節)。何だか不思議な、ちょっと不気味さも感じる場面ですね。イエスさまが行われたのは、いわゆる「悪魔祓い(悪霊祓い)」と呼ばれるものです。映画『エクソシスト』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。

福音書を読みますと、イエス・キリストが悪霊を追い出す場面が繰り返し出てきます。イエスさまが生前、ご自身の働きとして大切にしていらっしゃったのが、病いの癒しと、悪霊の追い出しでした。

 

 

 

聖霊のお働き ~対等な、愛と信頼に基づく関係に

 

聖書に登場する諸霊が具体的にどのような存在であったかは、後世の私たちにははっきりとは分かりません。様々な解釈が可能であると思います。一つ言えることは、いま述べましたように、悪しき霊は、神さまと敵対する働きをしているということです。悪しき霊の働きと、聖霊のお働きは、根本的に相容れないもの。聖霊のお働きと対立する、何らかの否定的な力が悪しき霊だと受け止めることができるでしょう。

 

先週の聖書箇所ローマの信徒への手紙8章には、《人を奴隷として再び恐れに陥れる霊》という表現が出てきました。人を支配し、恐れに陥れようとする悪しき霊が、そう呼ばれています。悪しき霊は、私たちを恐れによって支配し、私たちの関係を支配‐被支配に基づくものに歪ませるよう働くものであると受け止めることができます。

イエスさまはそのような《悪霊》の支配の現実と向き合い、人々の間から《悪霊》を追い出すことをご自身の大切なお働きの一つとしてくださいました。そうして一人ひとりに自由と尊厳を取り戻すべく、心血を注いでくださいました。

 

このとき、イエスさまの内に働いていたのが聖霊の力です。聖霊とは、私たちを支配‐被支配の関係から解き放ち、対等な、愛と信頼に基づく関係を新しく築いてゆくよう働いてくださる神の力であると受け止めることができます。それが、聖書が語る聖霊のお働きの一つであると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

 

 

悪しき霊の働き ~力の支配

 

悪しき霊とは、私たちを恐れによって支配し、私たちの関係を支配‐被支配に基づくものに歪ませるよう働くものであると述べました。悪霊をそのように受け止め直してみると、この否定的な力は空想上のものではなく、いまを生きる私たちにおいても、日々経験し得るものであることが分かります。私たちの近くに遠くに、この悪しき力はいまも猛威を振るっているのではないでしょうか。

 

 現在、国際社会において、「力の支配」に頼る傾向が急激に加速しています。力の支配とは、軍事力や経済力によって、あるいは武力行使によって、強制的に他国・他者を支配することを言います。私たちが力の支配に頼ろうとするとき、私たちは知らずしらず、悪霊の悪しき力に同調していることになりはしないでしょうか。この悪しき力によるものの最たるものが、戦争です。一人ひとりの命と尊厳を奪い、傷つける、最も大きな暴力が戦争です。

私たちの日本の社会においても現在、軍事力と経済力をより強化し、「強い日本」であろうとする主張が勢いを持っています。この「強さ」に重きを置く価値観は、力の支配と親和性があるものであり、強い懸念を覚えるものです。軍事力や経済力において国家が強くあろうとすればするほど、市民一人ひとりの尊厳が周縁に追いやられ、人権が軽んじられることになる恐れがあります。

 

 

 

私たちの身近なところでも

 

 支配‐被支配の関係性というものは、私たちの身近なところでも生じ得るものです。職場で、学校や大学で、あるいは家庭で、支配‐被支配の関係は生じ得るものでしょう。いじめやハラスメントもこの悪しき力によって生じているものです。ハラスメントは、立場が強い(優位な)人が、立場がより弱い人に対して、有無を言わさず(強制的に)力を行使するという点において、力の論理と共通しています。そこに対等な関係はなく、力による支配に基づいた主従関係が生じてしまっています。ハラスメントは、他者の尊厳を傷つけ、人権を侵害する行為であり、決して容認することはできないものです。

 

私たちはこれらの目には見えない暴力に対して、はっきりと「否」を言わねばなりません。イエスさまは生前、悪霊の働きに対してはっきりと「否」をつきつけ、人々の間から悪霊を追い出してくださいました。イエスさまは、尊厳がないがしろにされている現実を決して見過ごしにはなさらない方です。死よりよみがえられたイエスさまはいまも私たちと共におられ、聖霊の力を私たちに与えてくださっています。

 

 

 

聖霊に満たされて

 

 本日の聖書箇所の一つである使徒言行録41331節では、聖霊に満たされたペトロとヨハネが《大胆に》神の言葉を人々に語り伝える場面が描かれていました。宗教的な権力者たちから黙っているように圧力をかけられる中で、それでもなお、活き活きと福音について語り続ける弟子たちの姿が印象的です。

 

 しかしその彼らも、以前はそうではありませんでした。皆さんもよくご存じのように、イエスさまが捕らえられた際、弟子たちは師を見捨てて逃げてしまいました。ペトロもイエスさまのことを「知らない」と否定しました。恐れに支配され、彼らは言葉を発することもなく家の中に閉じこもっていたのです。

 使徒言行録では、その弟子たちが変わったのは、彼ら自身の力によるのではなく、聖霊の力によるのだと語られています。聖霊に満たされた弟子たちは、《大胆に神の言葉を》語るよう導かれてゆきました(使徒言行録431節)

 

《大胆に》という言葉は、「率直に」とも訳すことができる言葉です。この語は元来は、《あらゆることを言える自由》を表している語であるそうです(ギリシア語新約聖書釈義事典Ⅲ、教文館、1995年)。恐れと悪しき霊の支配から解放され、自由に、尊厳をもって、神の言葉を語ることができる。その率直さ、大胆さを弟子たちは聖霊を通して与えられてゆきました。

 

 

 私たちの近くに遠くに、社会のさまざまなところに、悪しき霊による支配があります。そのような中にあって、私たちはこれらの否定的な霊の働きに気づき、その支配の中に取り込まれ続けることのないよう、聖霊の助けを祈り求めることが必要でありましょう。これ以上、神さまの目に大切な一人ひとりの生命と尊厳が傷つけられることのないように。そうして、私たちが対等な、愛と信頼に基づいた関係を共に築いてゆくことができますように、聖霊の導きを祈り求めたいと思います。