2026年7月12日「神からの真理」

2026712日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:テモテへの手紙一31416

「神からの真理」

 

 

教会の土台はイエス・キリストご自身

 

本日の礼拝では、このメッセージの後に『主は教会の基(もとい)となり』という賛美歌を歌います(讃美歌390番)。作詞をしたのはサミュエル・ジョン・ストーン18391900年)という人で、「AURELIA(アウレリア)」と呼ばれる美しい旋律が組み合わされています。愛唱賛美歌(大切にしている讃美歌)にしている方もいらっしゃることでしょう。

 

1番の歌詞を引用いたします。《主は教会の 基となり、/みことばをもて これをきよめ、/われらを死より ときはなちて、/仕うる民と なしたまえり》(日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』所収、日本基督教団出版局、1997年)

 

《主》とは、イエス・キリストのことです。《基》とは、「土台」「根本」の意味を持つ言葉ですね。この歌い出しの部分では、イエス・キリストご自身が教会の土台となってくださったことが謳われています。

 

 家を建てるにあたって、土台の部分は極めて重要ですね。固い土台の上に立てないと、建物全体が揺らいでしまいます。もし砂のような脆い地盤の上に家を建ててしまうと、大雨が降った際などに、家が倒れてしまう恐れがあります。「砂上の楼閣」という言葉の由来となったイエス・キリストのたとえ話(マタイによる福音書72427節)でも語られている通りです。

 

 パウロが記した書簡であるコリントの信徒への手紙一3章には、次の言葉があります。《イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません》(311節)。ここでもやはり、教会の土台はイエス・キリストご自身であることが語られています。

 

 建物において、土台と共に重要なのは柱です。教会の土台がイエス・キリストであるとすると、教会の柱もまたイエス・キリストご自身であることになるでしょう。

 本日は教会の、あるいはキリスト教信仰の「土台と柱」ということについてお話してみたいと思います。

 

 

 

キリスト教信仰の土台 ~イエス・キリストは「まことの一人の人間であった」ということ

 

 まずは、キリスト教信仰の土台についてお話します。キリスト教信仰の土台とは、どのような事柄でしょうか。それがないと、キリスト教がキリスト教として成り立たなくなるもの。キリスト教の「かけがえのなさ」を創り出しているもの。あるいは、キリスト教のすべてはそこから始まったと言えるもの――。

 キリスト教信仰の土台とは、イエス・キリストは「まことの一人の人間であった」ということです。イエス・キリストは確かに実在の人物であり、一人の人間として生まれ、一人の人間として生き、生涯を終えた歴史的人物であったということです。

 

 何だ、当たり前のことじゃないか、と思った方もいらっしゃるかもしれません。けれども、この、イエス・キリストが「まことの一人の人間である」という事柄は、キリスト教信仰において土台であると言えるほど、重要なことなのですね。

イエス・キリストがこの世界に来てくださったことは幻ではない。イエス・キリストが一人の人間として生きておられたのは、確かな事実である。その事実を共通の土台(前提)としている書が、四つの福音書です。

 

イエス・キリストはおよそ2000年前のパレスチナで、一人の人間として生きていた方です。イエスは生前、人々から「ナザレのイエス」と呼ばれていました。神と隣人への愛に生き、神の国の福音を宣べ伝え、そしてそのご生涯の最期に十字架刑によって亡くなられました。ナザレのイエスがお生まれになったのは紀元前46年頃、十字架刑によって亡くなられたのは紀元30年頃であると考えられています。

 

新約聖書のヨハネの手紙一の冒頭にはこのような言葉があります。《初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について114節)

《初めからあったもの》《命の言》とは、イエス・キリストのことです。ここでは、私たちが聞いて、見て、手で触れることができた存在として、イエスさまのことが語られています。

 

この手紙が書かれたのは、イエスの十字架の死から7080年ほど経った頃のことだと考えられます(紀元100年~110年頃)。著者のヨハネは当時、かなりの高齢であったでしょう。その頃、世代が移り変わり、教会の中で生前のイエスさまに実際に会ったことのある人はいなくなっていました。例外はヨハネで、ヨハネは子どもの頃、実際にイエスさまに会ったことがあったと考えられます。もしかしたら子どもであった頃、イエスさまから抱きしめられた経験があったのかもしれません。世代が替わり、教会の中で生前のイエスさまへのリアリティが薄れる中――キリストは幻として、この世界に仮の姿で現れたのだとする考え(仮現論)も力を持つようになっていました――、ヨハネはこの手紙を通して、「イエス・キリストがこの世界に来てくださったことは幻ではない。私たちがこの手で触れた、確かな事実である」ことを改めて人々に伝えようとしています。

 

 

 

キリスト教信仰の柱 ~イエス・キリストは「まことの神の子である」ということ

 

 キリスト教信仰の土台――「生前のイエス」の側面について述べました。では、キリスト教信仰の柱とは何でしょうか。この柱の部分も土台と共に、キリスト教の「かけがえのなさ」を創り出しているものです。

キリスト教信仰の柱、それは、イエス・キリストは「まことの神の子である」ということです。イエス・キリストは神の子、救い主である。神の子キリストによって、この世界に救いがもたらされたことを、新約聖書全体は証しています。

 

イエスは神の子・救い主――。ここにおられる方の中には、何だ、これも当然のことじゃないかと思った方もいらっしゃるかもしれません。ただし、クリスチャンの方にとっては当然のことでも、これはクリスチャンではない方には必ずしも当たり前のことではないですよね。イエス・キリストが「まことの一人の人間であった」ということは、歴史的な事実として、誰もが受け入れることが可能なことです。一方、イエス・キリストが「まことの神の子であった」ということは、信仰が関わることであり、信仰を持っているので受け入れることができる事柄だと言えます。信仰のメガネを通して見ることができるキリストの側面を、「信仰告白のキリスト」と言います。

 

歴史的人物であるナザレのイエスを通して、神のまったき救いの業が現わされた。このイエスが神の子・救い主である、と教会は信じてきました。

救いの業とは、具体的には、「十字架、復活、昇天、再臨」の出来事のことを指します。四つの福音書はイエスが「まことの一人の人間であった」ことを共通の土台としつつ、それぞれが、これらの救いの出来事を描き出しています。

 

 

キリスト教は伝統的に、イエス・キリストが「神の子である」ことと、「一人の人間である」ことは、切り離し得ないこととして受け止めてきました。イエス・キリストは「まことの神であり、まことの人」である――。どちらか一方だけではなく、この二つを、切り離しえない「柱と土台」として、大切にし続けてきたのですね。この柱と土台とが合わさってはじめて、聖書が指し示すイエス・キリストの全体が明らかになり始めます。

 

 

伝統的なキリスト教信仰の基本構造

 

スクリーンに映しているピラミッドのような図形は、は、今まで述べてきました、伝統的なキリスト教信仰の基本構造を図で表したものです。

土台の部分が「生前のイエス」の側面、すなわち、一人の人間としてのイエスの側面を示しています。柱の部分が、「信仰告白のキリスト」の側面、神の子としてのキリストの側面を示しています。柱の部分は、十字架‐復活‐昇天‐再臨の四つの側面に分かれています。

 

この土台と柱が合わさって、イエス・キリストの全体を指し示しています。これが、イエス・キリストは「まことの神であり、まことの人」であるとする、伝統的なキリスト教信仰の基本構造です(この図は私が独自に作成したもので、キリスト教の教科書にこのような図が載っているわけではありません)。

 

 

 

受肉の信仰 ~「神が人となった」

 

 キリスト教信仰の土台と柱についてお話しました。改めて、本日の聖書箇所の一つであるテモテへの手紙一31416節を読んでみましょう。《わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。/行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。/信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた

 

 ここでも「柱と土台」という言葉が出てきましたね。この箇所では、教会が「真理の柱、土台」であると言われています。ただしその柱と土台は、私たちが築いたものではなく、神さまご自身が提供してくださったものです。これまで述べてきましたように、イエス・キリストご自身が、私たち教会の柱であり、土台です。

 

 16節の中に《キリストは肉において現れ》という言葉がありました。《肉》とは、「肉体をもった人」という意味です。「キリストは肉体をもった人として現れた」ということが言われています。キリスト教の用語で「受肉」と呼ばれる出来事です。

 

 イエス・キリストが「まことの一人の人間である」ことがキリスト教の土台であることを繰り返し述べてきました。同時に、イエス・キリストが「まことの神の子である」ことが、キリスト教の柱であることを述べてきました。この二つのことをどちらも真理として受け止めるとしたら、どうなるでしょうか。柱と土台が組み合わさり、「神が人となった」という信仰が立ち現れます。神が肉体をもった人間となられた、それがイエス・キリストなのだという理解です。この受肉の信仰を特にはっきり言語化しているのが、ヨハネによる福音書です。

 

「神が人となった」というこの信仰は、キリスト教信仰の固有性を形づくっているものです。この信仰理解が、他宗教とキリスト教とを分ける大きな特質となっていると言えます。

 ご一緒に心に留めたいことは、「人が神となった」のではなく、「神が人となった」という視点です。懸命に修行を積んで、あらゆる弱さを克服して、イエスは神の子になったのではないのですね。もともと神の子であった存在が、およそ2000年前のある日、私たちと同じ人間となられた。同じ肉体をもち、同じ弱さをもった一人の人間になってくださった。その受肉の信仰をキリスト教は大切に継承し続けてきました。

 

 

 

「神は自ら人間になるほどに、私たち一人ひとりを大切に想ってくださっている」

 

この受肉の信仰から、私たちは汲みつくすことのできない、様々なメッセージを汲み取ることができます。最後に、本日ご一緒に汲み取ってみたいメッセージは、「神は自ら人間になるほどに、私たち一人ひとりを大切に想ってくださっている」ということです。

神さまは私たちを大切に想うあまり、自ら、私たちと同じ人間となってくださった。それほどまでに、神の目に私たち一人ひとりは大切な存在である。

 

イエス・キリストの存在が私たちに伝えて下さっていること、それは、神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴い存在であることです。かけがえがないとは、替わりがいないということ。私たちはそれぞれ世界にただ一人の、替わりがきかない存在なのであり、だからこそ大切なのです。神さまは私たちを愛するゆえ、自ら、人間となってくださった。それほどまでに私たちを愛し、大切にしてくださっている。そのメッセージを、本日はご一緒に汲み取りたいと思います。

 

このメッセージがとりわけ大切なものとして感じるのは、私たちの社会がより人間を大切にしない社会になりつつあるように感じるからです。「人間の大切さ」が見失われつつあるのが、現在の私たちの社会なのではないでしょうか。私たちの近くに遠くに、人間の大切さが見失われ、その尊厳が軽んじられている現実があります。

 

本日712日(日)を、私たち花巻教会が属する日本基督教団は「部落解放 祈りの日」として定めています。あらゆる差別の廃絶、すべての差別からの解放を共に祈る日です。私たちの社会にはいまだ、さまざまな差別があります。部落差別、障がい者差別、セクシュアル・マイノリティ差別、性差別、沖縄差別、アイヌ差別、在日外国人差別……。私たち自身が他者を差別したり見下したりしてしまう心をもっていることを自覚しつつ、互いに理解し合い学び合うことを通して、社会から少しずつ差別を無くしていけるようにと願います。

 

 

神さまが私たち一人ひとりを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にすることができますように。私たちの土台である柱であるイエス・キリストの言葉に、いつも心を開いていることができますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。