2026年7月26日「わたしたちは キリストの体」

2026726日 主日礼拝説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一121227

わたしたちは キリストの体

 

 

わたしたちは キリストの体

 

先ほど礼拝の中でご一緒に「わたしたちは キリストの体」という賛美歌を歌いました。本日の聖書箇所である新約聖書コリントの信徒への手紙一121427節をもとに、私が作詞をしたものです。作曲は飯靖子先生が担当くださいました。改めて歌詞をご紹介したいと思います。

 

《わたしたちは キリストの体 

ひとりひとりは その部分です

 

1,

ひとつの体 多くの部分

ひとりひとりが かけがえがない

違いがあって ひとつの体

 

2,

ひとつの体 多くの部分

弱い部分を 共に尊ぶ

配慮をし合い ひとつの体 

 

3,

ひとつの体 多くの部分

共に苦しみ 共に喜ぶ

補い合って ひとつの体》(『礼拝と音楽』No.209-2、日本キリスト教団出版局、2026年)

 

コリントの信徒への手紙の著者パウロは、私たちの関係性を体のたとえを用いて語っています。私たちは共に「一つのキリストの体」に結ばれており、それぞれが多様な役割を果たしているのだ、と。《あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です27節)――。体の各部分がそれぞれに異なった働きをしつつ、ひとつに結び合わされているように、私たちも違いがありつつ、キリストの体にひとつに結び合わされている。私たちはキリストの体の部分として、それぞれがかけがえのない役割を果たしながら、互いに補い合う関係にあることを語っています。

 

パウロが生きていた当時はもちろん多様性(Diversityダイバーシティ)という概念はまだありませんでしたが、この聖書箇所から私たちは多様性についての大切なメッセージを汲み取ることができます。近年はこの多様性と併せて、公平性(Equity エクイティ)と包摂性(Inclusion インクルージョン)という語もセットとして挙げられるようになってきています。英語の頭文字をとって、「DEIディー・イー・アイ)」と呼ばれます。コリントの信徒への手紙一12章はこのDEIについて、聖書の観点から語ってくれている箇所だと言えるでしょう。

 

多様性は現代を生きる私たちにとって大切な言葉の一つです。と同時に、この言葉が指し示す範囲はとても広く、様々な文脈で使うことが出来る言葉なので、時に混乱してしまうこともあるかもしれません。多様性という言葉が社会に浸透した結果、むしろこの言葉に対する反発が生じてきている現状もあります。

 

たとえば、昨年から、アメリカの一部の大手企業において、これまで促進してきたDEI確保の取り組みが撤回される事態が起こっています。これらの動きはドナルド・トランプ氏が大統領に就任したことと連動していることが指摘されています。

多様性について否定的な言説が見られるようになっていることは、私たち日本の社会においても同様です。日本の一部の企業においても、DEI確保の取り組みを縮小する動きがあることが報じられています。現在、国内外で、多様性についてむしろ否定的な言説がなされる傾向が生じて来ているのではないでしょうか。

 

 

 

聖書が語る「多様性」 ~かけがえのなさ(固有性)の発見

 

改めて、本日の聖書箇所先コリントの信徒への手紙一121427節をご一緒に読んでゆきたいと思います。先ほど述べましたように、本日の聖書箇所においてパウロは私たちの関係性を体のたとえを用いて語っています。

 

本日の箇所から汲み取るひとつ目のメッセージ、それは、体の各部分が異なった働きをしているように、私たちにはそれぞれ、聖霊なる神さまから、異なった、かけがえのない役割が与えられているのだ、ということです。

私たちの体はたくさんの部分で成り立っています。頭、目や鼻、口や耳、胴体、内臓……それぞれが、異なった、固有の役割を果たしています。私たちの体がそうであるように、私たちにはそれぞれ、神さまから固有の役割が与えれています。ただ「違いが存在している」というだけではなくて、そこに「かけがえのなさ(固有性)」を見出しているのが聖書の多様性の特徴です。

 

 1番の歌詞を改めてお読みします。《ひとつの体 多くの部分/ひとりひとりが かけがえがない/違いがあって ひとつの体》。

 

「かけがえがない」ということは、「替わりがきかない」ということです。私たちは一人ひとり、替わりがきかない存在として神さまに創られた。必要のない人というのは決して存在しない。それぞれが、神さまから大切な役割を与えられている。私たちはこのメッセージを、パウロの体のたとえから汲み取ることができるでしょう。

 

この在り方と正反対であるのが、違いを認めることができず、「あなたも自分と同じになれ」と他者に強要しようとすることです。それぞれに備わる「かけがえのなさ」を否定し、相手を自分と無理に同化させようとするその在り方は、聖書が伝えるあり方とは正反対のものです。

 

 

 

聖書が語る「包摂性」 ~相互補完性の発見

 

本日の聖書箇所から汲み取ることができる二つ目のメッセージ、それは、私たちはそれぞれの役割を通して、互いに補い合っているということです。

 

体の各部分が異なる働きを通して互いに補い合っているように、私たちはそれぞれ、固有の役割を通して、互いに補い合い支え合っていることを伝えてくれています。ここには、私たち人間は本来的に、互いに補い合い、支え合って生きる存在であるとの理解があります。私たち人間は「共に生きる」存在であるという視点ですね。これが、聖書が伝える包摂性です。

 

このことを賛美歌の3番で謳っています。《ひとつの体 多くの部分/共に苦しみ 共に喜ぶ/補い合って ひとつの体》。

 

この在り方と正反対なのが、違いを受け入れることができず、自分とは異なる他者を「あなたは要らない」と排除しようとすることです。手紙の中には、次のような言葉が記されています。目が手に向かって「あなたは要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「あなたたちは要らない」とも言えない21節)

他者に対して、「あなたは要らない」と言うことは、本来できない。異なる相手を切り捨て、排除しようとする姿勢は、やはり聖書が伝える在り方とは正反対のものです。

 

聖書が語る多様性と包摂性。それは、私なりに言い換えると、「違いがありつつ、ひとつ」である在り方です。違いを否定してひとつになるのではなく、むしろ違いを通してひとつとなる在り方を聖書は伝えてくれています。

違いを「あってはならないもの」と否定的に受け止めるのではなく、むしろ違いを「あって良いもの」「あって素晴らしいもの」として肯定的に受け止め直してゆくこと。そうして互いの違いを受け入れ、尊重しあってゆくことを通して、「ひとつ」に結び合わされてゆくこと、このことの大切さを、本日のみ言葉は私たちに思い起こさせてくれます。

 

気が付けば、自分と相手との違いを受け入れることができなくなってしまう私たちです。違いがあることが、ゆるせなくなってしまう。そうして「あなたも自分と同じになれ」と、相手を無理矢理自分にあわせようとしてしまう。あるいは、相手を攻撃し、「あなたは要らない」と排除しようとしてしまう。そのような振る舞いをしてしまうのが、日々の私たちの率直な姿でもあります。特に、自分こそ「正しい」と思えば思うほど、私たちはそのような極端な状態に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 

 

 

聖書が語る「公平性」 ~弱さの大切な役割

 

パウロは、キリストの体において、「弱さ」が大切な役割を担っていることを語っています。聖書が伝えるDEIを考える上でも、とても大切な部分であると言えるでしょう。

 

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。/しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体をひとつにまとめ上げてくださいました。/それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。/ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです2226節、聖書協会共同訳)

 

弱さは「要らない」ものではなく、私たちにとってなくてはならない役割を果たしてくれている。なぜなら、私たちの目に弱く見える部分があることで、私たちは互いに支え合うことを学んでゆくからです。互いの個性を尊重し合い、重んじ合ってゆくことを学んでゆくからです。

 

「違いがありつつ、ひとつ」である在り方を見失わないためには、互いの弱さを尊ぶ視点を見失わないこと、またそして、いま弱い立場にある人々への配慮を見失わないことが肝要であることを思わされます。これが、聖書が私たちに伝えてくれている公平性です。

 

 賛美歌2番《ひとつの体 多くの部分/弱い部分を 共に尊ぶ/配慮をし合い ひとつの体》。

 

弱さを互いに受け止める中で、私たちの間に共に生きる道が切り開かれてゆきます。共に生きるその道は、《ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ26節)道です。

 

 

 

津久井やまゆり園事件から10

 

本日726日、津久井やまゆり園事件(相模原障がい者施設殺傷事件)から10年を迎えました。2016726日未明、相模原市の障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員が刃物を持って侵入、19人の入居者の命が奪われ、27人が重軽傷を負いました。この事件においては、その残虐性とともに、犯行に及んだ若者の「重い障害をもった人はいないほうがいい」という言葉が社会に衝撃を与えました。またそのことによって、「優生思想」という言葉が改めて取り上げられるようになりました。

 

優生思想とは、自分の勝手なものさしによって、人を一方的に「優れた者」と「劣った者」に分け、「劣った者」とされた人々の命と尊厳を否定する思想です。言い換えますと、《強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい》という考え方です(藤井克徳氏『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』、合同出版、2018年、3頁)。やまゆり園事件はこの優生思想と深い関連があることが指摘されてきました。

 

優生思想は聖書が語るメッセージとは正反対の思想であり、決して容認することができないものです。優生思想は、本日ご一緒にお読みしたパウロの言葉とまさに正反対のことを述べていますね。神の目にかけがえのない他者に対して、私たちは決して「あなたは要らない」と言うことはできない。またそして、私たちの目には弱く見える部分こそが、尊いのです。

 

この事件によって深く傷つき、いまも悲しみの中にある方々の上に神さまの慰めとお支えを祈ると共に、このような大変痛ましい事件が私たちの社会で二度と繰り返されることのないよう願います。

 

 

どうぞ私たちが違いを受け止め合い、弱さを尊び合い、互いに補い合いながら歩んでゆくことができますように。一人ひとりの命と尊厳がまことに大切にされる社会を共に形づくってゆくことができますように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。